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用語紹介(5/5)



内証(ないしょ)

 「ないしょの話は、あのねのね」というかわいい童謡があります。「この話は、ないしょにしてね」といえば、他人には話さず、秘密にしてください。という意味でしょう。

 この「ないしょ」は、仏教語の「内証(ないしょう)」が変化した語なのです。

 内証とは、自分自身のこころの内に、仏教の真理を証(さと)ることをいいます。その悟った真理そのものを指すこともあります。だから、内証とは、他人には説明できない内心の悟りをしめす言葉なのです。

 それが、表向きにしないで内々にしておくことになり、内密とか身内とか、うちわの話を意味する「ないしょ」となりました。

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奈落(ならく)

 「奈落の底に突き落とされる」などといわれるように、奈落とはこれ以上落ちるところがないような、どん底を意味しています。また、劇場では、舞台の床下や花道の下にある地下室を、奈落と呼んでいます。回り舞台やせり出しの装置のあるところのことです。

 もともと、奈落とは、インドの言葉「ナラカ」の音訳で、地獄という意味です。だから、奈落の底といえば、地獄の底のことで、深くて底知れない所、永久に浮かばれない所を意味し、それから、物事の最終、どん底を指すようになりました。

 奈落の底はおそろしい所ですよ。

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人間(にんげん)

 普通、人間とは、ひととか人類。人物とか人がら。人の住む所とか世の中を意味しています。

 人間をジンカンとは読まずに、多くニンゲンと読むのは、人の世界という意味の仏教語だからなのです。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六つの世界に、生死を繰り返すことを六道輪廻といいますが、その一つの世界が人間なのです。

 織田信長が今川義元との桶狭間の合戦の先立って、「人間五十年、下天の内に比らぶれば夢まぼろしの如くなり」と、謡いながら舞う名場面があります。この「敦盛」という謡曲の名文句のもとになっているのは『倶舎論』の「人間五十年、下天一昼夜」の文です。

 下天とは、仏教宇宙観でいうと、須弥山中腹の四方にある四天王のことで、ここの一昼夜は、人間の世界の五十年に相当するというのです。決して、人生わずか五十年といっているのではありません。

 皆さん、遠慮しないで、長生きをしてください。

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涅槃(ねはん)

 「涅槃で待つ」という遺書を残して、人気ある俳優が自殺してから、涅槃という語が一般に有名になりました。

 涅槃とはインドの語「ニルヴァーナ」の訳で、吹き消すことを意味します。煩悩の火を焼きつくし、不生不滅の境地に入ったことで、特にお釈迦さまの死を指す言葉でもあります。

 お釈迦さまは、2月15日、クシナーラのサーラの林の中で、80歳の生涯を終えられました。涅槃に入ると言われています。それ以来、この日を涅槃会(ねはんえ)と呼んで、お釈迦さまのお徳をしのぶ日としています。

 涅槃で待つどころか、涅槃に入ることが大へんなことですね。

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幡(旗:はた)

 オリンピックの開会式では、各国選手団が自国の国旗を先頭に堂々と入場します。また、入賞した選手の表彰式には、国旗が掲揚されます。

 しかし、ハタは国旗だけではありません。シンボル、信号、儀礼、装飾と、数多くの種類があり、その用途はさまざまです。

 仏教では、ハタとは仏・菩薩の威徳を表す荘厳具です。印度の語「パターカー」を音写して「幡」と書きました。大法要や説法などのときに、寺の境内や本堂に飾ったもので、三角形の首部の下に細長い幡身(ばんしん)をつけ、その下から数本の脚を垂れた、ノボリの一種です。

 これに触れると滅罪の功徳があるとか、これを作れば八苦を離れる利益があるなどといわれているものです。

 中国で「旗」というときは、軍旗のことだったようですが、今では、すべてのハタの総称となりました。

 オリンピックの表彰式などで、日の丸が揚がるのを見るのは、うれしいものですね。

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鉢(はち)

 「鉢」というと、みなさんはどんなものを思い起こされるでしょうか。

 食器としての「お鉢」をはじめ、手洗い水を入れておく「ちょうず鉢」、盆栽などの「植木鉢」、あるいは頭蓋骨(ずがいこつ)、「頭の横まわり」、それにまく「鉢巻き」、頭をぶっつけ合う「鉢合わせ」、そして「お鉢がまわる」など、鉢は日常用語としていろいろに使われています。

 この鉢は、もともとインドの語「パートラ」の音訳で、詳しくは「鉢多羅」と書き、応量器と訳され、修行僧の正式の食器のことでした。後に托鉢(たくはつ)用の鉄鉢を指すようになりました。

 インドの修行僧の基本的な持ち物を「三衣一鉢」といいますが、それは3種類の法衣と、この鉢のことなのです。

 「鉢多羅」の鉢の部分だけが伝わったのでしょうが、それにしても、鉢がインドの言葉だったとは、不思議なものですね。

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彼岸(ひがん)

 「暑さ寒さも彼岸まで」「ひがん花」「ひがんだんご」などと、彼岸は昔から日本人に親しまれてきた国民的行事です。

 秋分・春分の日を中日とし、その前後1週間のあいだ、寺々では彼岸会という法事が勤められ、祖先をしのび、墓参や寺院に参詣する期間となっています。

 彼岸とは、文字通り、向こう岸のこと。インドの語「パーラミター」の漢訳「到彼岸」を略したもので、私たちの住む迷い多い彼岸から、煩悩の川を渡り越えて到達する仏の世界をいいます。

 お釈迦さまは、此岸から彼岸へ到達するための道として、「六波羅蜜」の教えを説いておられます。太陽がま東からのぼり、ま西に沈んでいくこの日に、此岸の現実を反省し、彼岸の仏さまのお徳をたたえるのです。

 そういえば、極楽はま西にあると聞きました。

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皮肉(ひにく)

 遠まわしの、いじの悪い非難や、あてこすり、いやみを、一般には、皮肉といっています。皮肉屋といったりします。また、運命の皮肉などという言葉もあります。

 仏教では、身体のすべて、全人格、宗祖らの信念・思想・行為などのすべてのことを、皮肉骨髄(ひにくこつずい)といいます。

 達磨(だるま)大師が、4人の弟子に「お前はわしの皮を得ている」「肉を得ている」「骨を得ている」「髄を得ている」と、その悟りの深浅を定め、一番深く悟った弟子に法を伝えた話があります。

 皮や肉は、骨や髄に比べ、浅い悟り、表面的な形相、枝葉的なものを指しています。そんなところから、相手の骨髄にまで届かないが、表面だけをチクリと刺す非難が、皮肉と呼ばれるようになったのでしょう。

 しかし、けっこう骨身にしみるものもありますがね。

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貧者(ひんじゃ)の一灯(いっとう)

 街は中元セールの真っ最中です。そこで今回は『阿闍世王受決経』に出てくる「貧者の一灯」の物語を一席。

 王舎城の阿闍世王は、お釈迦さまを招待して手厚く供養したが、今度は火をささげたいと、百石の麻の油をととのえ、これを車に乗せて霊鷲山のお釈迦さまのもとへ贈った。

 王舎城の町の片隅に、一人の貧しい老女が住んでいた。常日頃、お釈迦さまに供養をささげたいと願っていたが、孤独貧困の身ではどうすることもできなかった。

 この老女が道ばたで、王が贈る麻油の車に出会い、自分も一灯を献じたいと、道行く人々にたのんで、わずかばかりのお金を得た。そのお金を手に油屋へ行くと、主人が感激して、二合分の代金で五合の油を売ってくれた。老女は喜んで、その一灯をお釈迦さまに捧げたのである。

 翌朝、王の万灯はすっかり消えていたが、貧女のささげた一灯だけは、いつまでも燃え続けていたという……。

 物より心を大切にして下さいね。

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奉行(ぶぎょう)

 最近、テレビの時代劇を見ると、北町奉行大岡越前守とか、南町奉行遠山の金さんとか、お奉行さまがよく登場します。みな、かっこうのいいお奉行さんばかりですね。

 奉行は、主君の命令を受けて行うという意味から、日本では武家時代の職名の1つになっています。五奉行とか、寺社奉行、勘定奉行、長崎奉行、町奉行などがよく知られています。

 実は、奉行は仏教語で、しかもそれを「ブギョウ」と読むのは仏教読みなのです。仏教では、仏の教えを[奉]じて修[行]することを奉行といいます。

 有名な『七仏通戒偈』に、

 「もろもろの悪をなすことなく、もろもろの善を奉行して、
  自己の心を浄化せよ。これが諸仏の教えである」

とあるのがそれです。

 テレビのお奉行さまは粋(いき)なお裁きなので、善を奉行したことになるのでしょうか。

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無事(ぶじ)

 「全員、無事で帰りました」「おかげで無事に暮らしております」など無事は日常よく使われる言葉です。

 「平穏無事」の語もあります。

 無事は、元来、仏教語で、精神的になすべきわずらいのない状態をいっています。こだわりのない、障りのない心の状態をさしているのです。

 「無事これ貴人なり」と仏典にありますが、常識的な思想や分別にもとづいて仏とか悟りとかを求めることをせず、ただ人間の本来の姿に徹したそのままの人こそ尊ぶべきだという意味です。

 無事の対語は、事件や戦争などの「有事」ですから、無事は大切なことです。

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不思議(ふしぎ)

 「不思議な事件だね」「○○の七不思議」など、不思議は、思いはかられないこと、いぶかしいこと、あやしいことや奇怪という意味の日常語です。

 現代人は、合理的理解の及ばない物はあり得ないと思っている人が多いので、不思議というときには、異様なものという思いが先立つようです。しかし、人智を越えたものには、もっと謙虚になるものですよ。

 「不思議」とは、もともと、「不可思議」の略です。言葉で言い表したり、心でおしはかることのできないことをいい、仏のさとり、智慧や誓願などの形容に用いる語で、仏典には、しばしば登場します。

 阿弥陀仏を不可思議光仏というのをはじめ、『歎異抄』には「弥陀の誓願不思議に」とか「不可称不可説不可思議の故」とあるなど、その用語例は数多く見受けられます。

 『高僧和讃』にもあります。

  いつつの不思議をとくなかに 仏法不思議にしくぞなき
  仏法不思議といふことは   弥陀の弘誓になづけたり

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不請不請(ふしょうぶしょう)

 「不請不請、承知してしまいましたよ」というように、不請不請は、不承知ではあるが仕方なしに、いやいやながら、しぶしぶ、不本意という意味の日常語で、不承不承と書く場合もあります。気の進まない顔つきを不請顔といいます。

 この「不請」は、もともと仏教語で、経典に出てくるのです。でも、意味は全く違います。

 不請とは、請い望まれなくても、救いの手をさしのべることで、仏・菩薩の慈悲救済の性格を語る言葉なのです。だから、仏・菩薩のことを「不請の友」といいます。『無量寿経』には「諸の庶類の為に不請の友と作(な)り」とあり、また『勝鬘経』には「普く衆生の為に、不請の友と作(な)り」とあるのがそれです。

 『維摩経』に「衆生請はざるに友となって之を安ず」とあるように、人々から請願しないのに、慈悲の心を持って、進んで教化し、救う真の友です。

 大変有り難い友ですが、われわれ凡夫の社会では、おせっかいといわれそうで、つい不請不請……。

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普請(ふしん)

 家を建てたり改築したりするとき、よく「普請する」という言葉を使います。「道普請」という言葉もあります。普請とは、建築とか土木工事のことを言うようです。

 普請は、仏教では、功徳を普(あまね)く請(こ)いねがうという意味で、ひろく寄付をつのり、労役に従事してもらって、お堂や仏塔などの造営、修理をすることなのです。

 それがその後、一般家庭の屋根などを建築したり修理する場合にも、使われるようになりましたが、最近では、住宅ローンで資金を借り入れて建築することが多くなったせいか、あまり普請という言葉は聞かれなくなりました。

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布施(ふせ)

 お布施といえば、一般には仏事の時にお坊さんに差し上げるお金のことを言っているようです。お経料と思っている人もいます。

 しかし、布施とは、もともと「ほどこし」の意味で、自分の持ちものを惜しみなく他人に与え、ともに助けあい喜びあうことをいいます。僧が仏の道を説くことを法施といい、在家の人が金銭や物品を差し上げるのを財施といいますが、ともに布施なのです。

 また、真心と愛情に満ちた態度で相手に接するのも、乗り物で席をゆずることも布施といい、必ずしもお金のことだけではなく、自分にできる「ほどこし」はみな布施だったわけです。

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不退転(ふたいてん)

 「政治改革の推進には、不退転の決意で取り組んでいく」。海部首相の施政方針演説です。

 不退転の決意とは、志を固く保持して、決して屈しない決意という意味です。「不退転の決意で、この難局を乗り切る所存」などと、政治家の演説によく登場する語句です。この「不退転」が仏教語です。

 インド語の「アヴァイヴァルティカ」の訳で、不退とか無退とかとも訳されています。文字通り、退転しないことで、仏道修行の過程で、すでに得た功徳を決して失うことがないこと、もはや後退することがないことをいい、その位を不退の位とか、不退転地といいます。

 浄土真宗では、他力信心を得たものは、この世において、正定聚不退の位につき、必ず仏に至るに定まると説きます。

 だから『浄土和讃』はいいます。

  真実信心うるひとは    すなはち定聚のかずにいる
  不退のくらゐにいりぬれば かならず滅度にいたらしむ

 政治改革、よろしくお願いしますよ。

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蒲団(ふとん)

 坐禅(ざせん)の時などに、お尻に敷く敷物があります。直径30センチぐらいの円形でその中に蒲(がま)がつめられているものです。蒲の葉で編んだものもあります。これが、[蒲]の葉の[団]円、つまり、文字通り蒲団なのです。

 現在、皆さんが使用されているふとんは、布団と書いて寝具です。敷きぶとんとか、掛けぶとんとか呼んでいます。そして、座る時に使うものには、わざわざ座ぶとんという名をつけています。しかも、常識的には四角形なのです。仏教の用具だった丸い座ぶとんが、四角形になり、いつの間にか寝具となっていったのですから、この変化は、まことにおもしろいですね。

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不如意(ふにょい)

 「目下、手もと不如意で」。借金を断るときに、よく聞かれるセリフです。資金に乏しく思うに任せませんので、という意味でしょう。このように「不如意」は、思いのままにならないことをいいます。

 『西遊記』で活躍する孫悟空は、「如意棒」という伸縮自在の不思議な棒を持っていますね。

 「如意」は思い通りになること、自分の意のままになることで、仏教では、それは悟りを開いた人の達する自由自在の境地を意味します。如意智や如意通、如意力という語もあります。

 法会の時など、僧が持つ、手のような形をした道具を「如意」といいます。意のままに宝を出すという願望成就の珠を「如意宝珠」といい、密教ではこれを本尊にする法要もあるようです。「如意輪観音」は宝珠と法輪を持って、人々の願いを叶える観音といわれています。

 このようにみると「如意」は仏菩薩の世界ですね。われわれ人間の世界はもっぱら「不如意」ですな。「百事如意」などなかなか。

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平常心(へいじょうしん)

 政治家が報道陣に囲まれて「今の心境は」と聞かれた時、よく「平常心」と答えている場面をテレビで見たことがあります。特別変わった心境じゃないよ、ふだんの心だよ、とでも言いたいのでしょうか。

 『無門関』という禅の書に、唐代の僧、南泉普願と弟子の趙州従ネンとの問答があります。

 趙州が「如何なるか是れ道」と問うたのに対し、師の南泉が「平常心是れ道」と答えるのです。平常心は、ビョウジョウシン(曹洞宗ではヘイゼイシン)と読みます。

 中国唐代の禅僧である馬祖道一は、その語録で「何をか平常心と謂う。造作(はからい)無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無し」といい、「只(た)だ如今の行住坐臥、応機接物、尽(ことごと)く是道なり」といいます。

 道とは悟りへの道、仏道のことですから、日常ありのままの心がそのまま仏道である、という意味になります。

 内外に難問が山積している現今の政治情勢ですが、真の平常心でお願いしますよ。

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方便(ほうべん)

 「うそも方便」という諺(ことわざ)があります。本来、うそは悪いことではあるが、物事をうまく運ぶためには必要な場合もある、という意味です。ですから、方便とは、目的のために利用される一時的な手段とでもいうことになりましょうか。

 方便とは、もともと、仏や菩薩(ぼさつ)が、衆生を救うために、相手に応じて、教理を無理に押しつけることなく、たくみな手段を用いることで、『法華経』の方便品(ぼん)は有名です。

 どうしても救いたいとの仏さまの心から出た手だてを指しているのです。

 方便をうそのことだと思うのは早計ですよ。

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法螺(ほら)

 「ホラを吹く」といえば、大げさなことを言う、うそをつくという意味に使われていますが、もとは、お釈迦さまの説法のことを指したのですから、不思議ですね。

 お釈迦さまの説法は、いろいろな表現で喩(たと)えられています。獅子吼(ししく)は有名ですが「大法螺(おおぼら)を吹く」も、その1つなのです。

 インドでは、戦場でホラ貝を吹き出陣の合図をしましたが、その音が遠くまで響き、軍勢を奮いたたせたのを、仏の説法の喩えとしたようです。

 それが「お釈迦さまのような偉そうなことを言う」という意味を経て、今のようになったとのことです。

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本因坊(ほんいんぼう)

 第38期本因坊決定戦7番勝負は、趙治勲本因坊と挑戦者の林海峰7段との間で、熱戦が続けられました。囲碁ファンなら誰でも知っている「本因坊」は、名人、棋聖などと並んで有名なタイトルの名称です。

 京都・寂光寺の塔頭(たっちゅう)に本因坊という坊堂があり、日海という囲碁の上手な僧が住んでいました。織田信長にみとめられ、豊臣秀吉に仕えて碁所となり、徳川家康に従って江戸へ行きました。そして、京都の本因坊に住んでいたところから本因坊算砂(さんさ)と名のったのでした。

 以来、本因坊は幕府の碁所の家元の1つとなり、世襲して21代秀哉まで続きました。

 昭和13年秀哉は碁界を引退しましたが、その時、本因坊の名称を日本棋院に委託し、14年から本因坊名跡争奪全日本選手権が開かれ、以来、タイトルの称号となったのです。

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末世(まっせ)

 「もう世も末だよ」「末世だなあ」と、末世という語は悲観的な表現で用いられています。

 お釈迦さまが入滅されてから5百年〜千年の間を正法の時代と呼び、仏教を正しく行じ悟りを開く人のいる時代とされ、その後の千年間は仏教を行じてもなかなか悟りを開く人はいない像法の時代とされています。それが過ぎると仏教は形骸だけになり、人びとは救われず、五濁悪世になるといい、これを末法の時代というのです。

 末世とは末法の世ということで、日本では永承7年(1052)から末法に入ったといわれました。

 『正像末和讃』に、

 「釈迦如来かくれましまして 二千余年になりたまふ
  正像の二時はをはりにき  如来の遺弟悲泣せよ」

とあるのがそれです。

 親鸞聖人はそんな中で、本願念仏だけが救済のよるべになると教えられました。

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無尽蔵(むじんぞう)

 テレビや新聞の報道を見ると、日本は世界一の経済大国だそうです。外国の人は、日本には無尽蔵にお金があると思っておられるのではないかと、錯覚してしまいそうです。

 「無尽蔵」は、取っても取っても尽きないことを意味する一言葉です。『仏教語大辞典』によると、無尽蔵の説明の中に、昔、中国で庶民の金融機関として、寺院に設けられた質庫。また、唐の信行の教団が作った経済機構で、多少を問わず信者の喜捨を蓄積して、低利で信用融資した、とあります。日本の無尽講や頼母子講の起源でしょうか。

 こうしてみると、やっばりお金のことかと思われそうですが、本来の意味は違うのです。『大乗義章』には「徳広くして窮まり難きを無尽と名づけ、無尽の徳を包含するを蔵という」とあります。つまり、徳が広大であって、尽きることのない蔵ということで、早くいえば、仏教の教えのことなのです。

 わが国は、徳の方面でも大国になりたいものですね。

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名刹(めいさつ)

 秋の行楽シーズンとなりました。いろいろな催しの中に、教養の旅の企画も目に入って来ます。名刹めぐりなどというのも、秋らしくていいですね。

 名刹とは、有名な由緒あるお寺のことですから、刹は寺院を意味することになります。

刹は、インドの語の「ヤシュティ」を音写した語で、杖とか棒とか旗竿という意味です。旗竿が、なぜ寺院を意味するようになったのかと、不思議に思われる方もあるかと思いますが、昔、中国で説法が行われるときには、お寺に宝珠火焔形のものをつけた長い竿を立て、旗を掲げたのでした。村人たちはこの旗を見て寺院に参詣するのです。この旗を刹幡(せっぱん)といいます。

 こうした風景から、刹はお寺のしるしとなりました。寺院を寺刹(じさつ)とか梵刹(ぼんせつ)などといい、有名なお寺を名刹というのです。他に、刹には国土の意味があるという説もあります。

このように、刹は説法が行われる知らせですから、聞法のためにお寺を訪れてほしいと思うのですが……。

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迷惑(めいわく)

 「ご迷惑を、おかけいたします」「迷惑千万だ」から「近所迷惑」「迷惑駐車」まで、迷惑は、いやなめにあって、困ることを意味する日常語としてよく使われています。

 迷惑は、もともと、道理に迷い、とまどうことで、どうしてよいか分からないで、途方にくれることを意味していました。

 親鸞聖人は、仏の慈悲に包まれ、仏の力に生かされながら、なおも愛欲の絆(きずな)にしばられ、名利を求めてさまよう自分に対する深刻な内観から、「悲しきかな、愚禿(ぐとく)鸞、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利の大山(たいせん)に迷惑して…」と『教行信証』に記しておられますが、その「迷惑」が、まさしく、この意味なのです。

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面目(めんぼく)

 面目が立つ、面目ない、面目を一新する、面目丸つぶれ、面目を施す、真面目など、面目は日常よく用いられる語で、大体は、人にあわせる顔、世間に対する名誉の意味です。

 仏教では「メンモク」と読み、人間にとって最も肝心かなめの本性を指しています。

 禅宗では「本来の面目」といういい方をし、大へん大切な語となっています。本来の自己、人間の真実の姿、ありのままの姿を意味し、迷いのない、汚れのない自己を指しますから、仏性のことなのでしょう。

 みなさん、面目を失っては困りますよ、真面目を発揮してほしいものです。

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夜叉(やしゃ)

「熱海の海岸散歩する、貫一お宮の二人づれ」。尾崎紅葉の『金色夜叉』の名場面です。金のために許婚の宮を奪われた貫一が、高利貸しとなって、金の力で、宮や世間に対し復讐の鬼となる物語ですね。

 「外面似菩薩、内心如夜叉」という言葉を聞いたり、「夜叉の面」を見たりすると、夜叉は恐ろしい鬼のイメージです。夜叉はインド語「ヤクシャ」の音写で、勇健という意味です。ヤクシャは古代インドの神話に登場する半神半鬼で、神通変化の力を持っており、人間を助け恵みを施す善神の反面、害をなし人を食う凶悪な鬼類でもあります。その伴侶が、魅力的な若い女性で、セクシーな姿に表現されているヤクシーです。

 この夜叉は、お釈迦さまの説法により、仏法を護持する八部衆の一神となり、毘沙門天の配下として北方を守護しています。おそらく、信心ある人を守っていることでしょうよ。

 ところで、一月十七日、今月今夜のこの月は、曇っていましたっけ。

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融通(ゆうづう)

 「ちょっと融通してくれませんか」といえば、金銭や物品を貸してくれませんかということで、「あの人は堅くて融通のきかない人なんだ」といえば、少々理論的にはおかしくても、なんとか処理してくれるというような人ではないよ、という意味なのでしょう。とにかく、融通は、一般に日常語としてよく使われています。

 『華厳経』の世界観の眼目は融通無碍(むげ)という思想だといわれています。宇宙の万物はそれぞれ孤立しているものではなく、互いに関係を保ち、よく調和しているというのです。

 融通とは、別々のものが融(と)けあい、通じ合い、両方が相まって完全なものとなることを意味する仏教語なのです。念仏はすべてのものに融通するところから「融通念仏宗」という宗派もあります。

 では、本当の意味で融通のきく人とは、どんな人なのでしょうかね。

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油断(ゆだん)

 「油断大敵」という言葉があります。ちょっとした不注意でも、それがもとで大失敗をまねくことがあるので、気を許したり、不注意は大敵である、という意味でしょう。

 『涅槃(ねはん)経』に、むかし、ある王が、1人の部下に油のいっぱい入ったつぼを持って歩かせ、「もし一滴でもこぼしたなら、汝(なんじ)の命を断つ」と言いわたしたことが書かれています。不注意は最大の敵だといういましめでしょう。この故事から、注意を怠ることを「油断」といったということです。[油]で命を[断]つということでしょう。

 油断は怪我の基といいます。みなさん、くれぐれも油断なきように。

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楊枝(ようじ)

 楊枝(ようじ)は楊子とも書き、歯を掃除する用具で、つまようじや歯ブラシのことをいいます。

 インドの修行僧が持っている道具を、六物とか十八物とか呼んでいますが、楊子は、その十八物の一つとなっています。柔らかい木の小枝を取り、その枝端をかみ、その汁で歯を磨き口を洗ったので、歯木とも言いました。

 この習慣は中国へ伝えられましたが、中国では楊柳で作ったので楊枝の語が生まれたといいます。

 日本へは仏教伝来と共に伝えられ普及しましたが、洋風歯ブラシ全盛の現在、つまようじだけが面影を残しているようです。

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用心(ようじん)

 「マッチ一本、火事のもと、火の用心」。寒風に拍子木の音が響きます。

 「用心」は文字通り、心を用いること、万一に備えることを意味する日常語です。「あの人は用心深い人だ」などといいます。盗賊の侵入などに備えて用意しておく「用心棒」、万一に備えて準備しておく「用心金」、さらに、火災などの時に家財などを入れて運ぶのに用いる大きなかごを「用心駕籠」といいました。

 仏教では、いつでもどこでもだれもが、綿密な心くばりを求められ、用心することが仏道修行の基本姿勢と考えられています。道元禅師には『学道用心集』があり、参禅者の心得を、法然上人には『往生浄土用心』があり、念仏行者の用心を教えています。

 「用心」はまた「常存正念」とも訳されます。仏教では、単に心をつかうだけでなく、平素つねに正しく心をはたらかせていることを用心というのです。それが一般的な注意という意味になりました。

 「火の用心」というからには平素から心がけてほしいものです。

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律儀(りちぎ)

 「律儀ものの子だくさん」という諺(ことわざ)があります。律儀は、律義とも書きますが、実直な人、正直者、几帳面な人、きわめて義理がたい人のことをいいます。このような人は家庭が円満なので子どもが多いのだそうです。

 仏教では、律儀を「リツギ」と読んで、悪行におちいることを未然にふせぐ戒律のことを意味します。また、善行のことをも指しています。

 だから、かたく戒律を守り、威儀を整え、すべての悪をなさぬことが、律儀なのです。

 仏教語「リツギ」がいつの間にか「リチギ」という日常語になりました。

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利益(りやく)

 「利益」−あなたはこの字を何と読みますか。

 「リエキ」と読む場合は、経済的な利得。もうけ、とくを意味します。「リヤク」と読めば、神仏の力によって授かる幸福のことで、いわゆる「ご利益」です。

 『仏教語源散歩』に面白い話が載っていました。「A君は就職試験の合格を祈った。残念ながらめざす会社は不合格で、やむなく第二志望の会社に入社する。ご利益はなかった。しかし、A君はその会社で実力を発揮し、充実した生活を送った」

 「B氏はギャンブルの勝利を祈る。その結果、大勝して大金を手中にした。ご利益はあった。しかしそのため、勤労意欲を失い、酒におぼれて健康を害し、悲惨な生活を送った」

 いったい、ご利益とは何でしょうかね。

 本当の利益を『現世利益和讃』はいいます。

  南無阿弥陀仏をとなふれば この世の利益きわもなし
  流転輪廻のつみきへて   定業中夭のぞこりぬ

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流転(るてん)

 『闘牛』『天平の甍』『氷壁』なとで有名な作家の井上靖氏が亡くなりました。氏は大学を卒業した昭和十一年に『流転』という時代小説を書き、「サンデー毎日」千葉亀雄賞を受賞しました。

 「流転」の原語はインドの語の「サンサーラ」で、「流れること」を意味します。この語はまた「輪廻」とも訳されていますから、流転と輪廻は同義語なのでしょう。流転も輪廻も、生まれ変わり死に変わり、迷いの世界をさすらうことをいいます。

 『無量寿経』に「これを以て生死の流転、休止あることなし」とあります。

 流転輪廻、流転無窮、流転生死、流転還滅、そして出家剃髪のときに唱える「流転三界中」など、さまざまな熟語を生みました。そこから、この世の生活の中で、境遇などが次々に変化していくことをいうようになりました。

 井上氏は『わだつみ』を、時間があれば『親鸞』をと、限りない執筆の夢を持っていたそうです。“井上親鸞”は読んでみたかったナー。

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蓮華(れんげ)

 「国際花と緑の博覧会」が、大阪鶴見緑地を会場に開催され、世界の花が一堂に集まり、人気を博しました。

 仏教の花は何といっても「蓮華」でしょう。泥の中に生まれながら、清らかで美しい花を咲かせ、しかも、その花が泥に染まらないことから、インドでは、昔から珍重されてきました。

 仏教でも、仏や菩薩、仏法や純粋な信心などの例えとなっています。仏や菩薩の多くは蓮華を座とし、これを蓮華座とか蓮台といいます。また、浄土に咲く花として、仏典にはしばしば登場します。仏典の蓮華は、蓮と睡蓮の総称で四種類あります。
 ウトパラ=睡蓮で青蓮華と訳し、色は青、赤、自。パドマ=蓮で紅蓮華と訳し、色は赤、自。クムダ=赤白または赤青の睡蓮。プンタリー力=芬陀利華、白蓮華と訳します。『正信偶』に「是人名芬陀利華」とありますね。

 さて、あなたはどんなお花が好きですか。

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老婆心(ろうばしん)

 「老婆心ながら」とことわって、一言つけ加えたり、忠告したりする場面に出くわすことがよくあります。言わずもがなでしょうが、とか、おせっかいとは思いますが、という意味なのでしょう。

 「老婆心」とは〈老婆心切〉とか〈親切心〉とかいって、老婆が子供や孫を愛撫(あいぶ)し、いつくしむように、師匠が修行者に対して、あたたかく導くこと。その心が深く厚いことを意味する仏教語だったのです。

 それが、度を越して、必要以上に世話をやこうとする気持ちを表す言葉となっていったようです。

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六根清浄(ろっこんしょうじょう)

 山開きとともに、夏山のシーズンとなります。「六根清浄、お山は晴天」と、かけ声をかけながら、富士山などに登山していく姿が見受けられるようになります。

 六根とは、眼根(げんこん)=視覚、耳根(にこん)=聴覚、鼻根(びこん)=嗅覚、舌根(ぜっこん)=味覚、身根(しんこん)=触覚の五官に、内面的な心の働きである意根(いこん)を加えたものです。根とは識を生まれさせる器官とその能力と説かれていますから、感覚器官のすべてを指しているのです。

 このすべての感覚器官である六根の汚れを取り去り、心身ともに清らかになることが「六根清浄」なのです。

 山岳仏教の行者が、神聖な山岳で修行することによって、心身ともに清らかになることを祈念してこれを唱えたところから、一般の登山者も、山が荒れぬようにとの祈りから唱えるようになりました。

 単なるかけ声ではありませんぞ。

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呂律(ろれつ)

 幼児や酔っぱらいなどが、舌が回らず、言葉がはっきりしないことを「呂律が回らない」などといいますね。

 仏教では、お経に節をつけて唱えることがよくあります。これを声明(しょうみょう)とか梵唄(ぼんばい)といいます。現代風には仏教音楽でしょうか。

 この声明には、呂旋法、律旋法、中曲の三種類の音階があります。そこから、呂律は声明の調子、音の調子、旋律という意味になりました。京都・大原三千院には、声明にちなんて、呂川・律川と名づけられた川が流れています。

 声明は日本の音楽に大きな影響を与えています。平家琵琶、謡曲、浄瑠璃、浪花節、今様、ご詠歌、各地の音頭、盆踊りなど、日本人の音楽の底辺には声明があるといわれ、カラオケでよく歌われる演歌も、その影響を受けているほどです。

 呂律は「りょりつ」から「ろれつ」に変化し、言葉の調子という意味になったようです。

 マイクを握ったら、あまり酔わないで、呂律正しく歌ってくださ いよ。

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和顔愛語(わげんあいご)

 今年も残り少なくなってきましたね。さぞかしお忙しいことでしよう。いや、年末だけでなく、今年一年中忙しかったという方もいらっしやることでしょう。そんな方に「和顔愛語」という言葉を贈ります。

和顔愛語は、学校の校訓になったり、額や書幅にも書かれたりしておなじみですね。和顔はやわらかな笑顔、愛語はやさしい言葉。つまり、笑顔で愛情のこもった言葉を話すことです。

 金や物がなくても誰にでもできる施しである「無財の七施」にも「やさしい言葉で相手に接する施し」「善意に満ちた和やかな顔と明るい姿で相手に接する施し」があります。

 人間間係にはたいへん大切な態度ですが、心に余裕がなければ、なかなかできるものではありませんよ。

 この和顔愛語は『無量寿経』というお経に出てくる言葉です。

忙しい、忙しいで、今年も暮れようとしていますが、来年こそは「和顔愛語」を忘れないようにしたいものですね。

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