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用語紹介(4/5)



頭陀袋(ずだぶくろ)

 頭陀袋といえば、一般には、だぶだぶした、何でも入れることのできる、便利な布製の袋のことをいいます。

 頭陀はインドの語の「ドゥータ」の音訳で「ふるい落とす」という意味です。煩悩の垢(あか)をふるい落とし、衣・食・住の欲を捨てて、ひたすら仏道修行をすることを指し、そのような修行を頭陀行といいます。

 衣はボロをまとい、食は人に乞い、住は樹下という人間の生活に必要な最低限の厳しい生活の中で修行します。

 そのような修行者が、携帯品を入れて首から前にかける袋を、頭陀袋といいました。

 死者を葬る時、その首にかける袋も頭陀袋といいますが、これは頭陀行の姿を模したものといわれています。

 このような頭陀袋が、一般に用いられる袋の名前になったのは、おもしろいことですね。

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世間(せけん)

 「渡る世間に鬼はなし」「世間は広いようで狭い」「世間の口には戸は立てられぬ」「世間様に申し訳が立たない」「世間体を気にする」「世間話に打ち興じる」「世間知らず」「世間並みにしてほしい」

 もうこの辺でやめましょう。とにかく、仏教語の「世間」は、このようにもてはやされています。

 仏教では、山とか川とか国土としての世間(器世間といいます)と、そこに住む生命のあるものとしての世間(衆生世間とか有情世間といいます)を二種世間といい、さらに、五薀世間を加えて三種世間とも呼んでいます。つまり、生命のあるもの同士が相依って生活する境界をいった言葉です。

 このような境界は、現実のこの世のことですから俗世間ですが、そこを超越した仏さまの境界は出世間といいます。世に出て立派な地位や身分になることを「出世」といいますが、この出世は出世間を略した言葉です。

 あまり世間体ばかり気にしていると、世間を狭くして、出世しませんよ。

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世智辛い(せちがらい)

 「近年は人の心世智辛くなりてより」(吉原雑話)

 「世智辛い」は計算高い、小賢しい、抜け目がないなどの意味です。「世智辛い世の中だ」とは、人々が打算的になって、世渡りがしにくくなることをいいます。

 この「世智」が仏教語です。世智は「世間智」ともいい、俗世間の凡夫の智恵のことです。そこから、世才、俗才、世渡りの才能の意味となっていきました。

 世渡りの才能とは、要するに、抜け目がなくて、勘定高いことにほかなりませんから、現在使われているような意味となったのでしょう。

 世智賢い、世智にたけている、という語句も同じ意味です。

 仏教では八難が説かれています。仏を見ることができず、法を聞くことができない境界が八種あるというのです。その一つに「世智弁聡」があります。これは世俗にたけて、仏の正法を信じられない人のことです。

 あまり世渡りのことばかりにうつつを抜かしていると、大切なことを見のがしてしまいますよ。

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殺生(せっしょう)

 「そら殺生でっせ、こんな値では商売でけしまへんで」 関西での商談で、よく聞かれるセリフです。

 「殺生なことはやめよ」など、殺生は、むごいこと、かわいそうなこと、残酷なことを意味する日常語です。

 殺生は文字どおり、生き物を殺すことです。仏教では、基本的な戒めである五戒、八戒、十戒で、その第一に「不殺生戒」を挙げて、殺生を戒めています。生き物を殺すなといいます。

 お釈迦さまは弟子達に「旅をするときには杖の先に金具の環をつけて、それを鳴らして歩け。地べたを這っている虫が驚いて逃げるだろう。そうすれば、一匹の虫も踏み殺さずに歩ける。水を飲むときには、木綿の袋で漉(す)かして飲め。水の中の小さな生き物を殺さないですむだろうから」と注意されました。その心は、生命を愛護し育成することです。生命を生かすことです。ショバイツァーは「生命への畏敬」といいました。

 動物愛護週間なんてのもありますね。もちろん、人間の命も大切に。

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接待(せったい)

 「お客さまを接待します」とか「接待係」「接待所」など、接待とは、お客を厚くもてなすことを意味する日常語として一般によく知られています。

 仏教では、「接待」とか「摂待」と書いて「ショウタイ」とか「セッタイ」と読み、一種の施しを意味する仏教語です。

 道のそばや、家の前に、清水や湯茶を出して置き、そこを通行する行脚(あんぎゃ)僧や旅僧、旅人に飲んでもらうことを、摂待とか門茶(かどちゃ)といいました。

 接待茶とか、ふるまい酒というのも、そこから出た言葉です。

 だから接待とは、飲食物を施してもてなすことなのです。

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刹那(せつな)

 刹那主義という言葉が流行したことがあります。過去や未来のことを考えず、ただ現在の瞬間だけを楽しむという、享楽的な生き方のことのようでした。「君の考え方は刹那的だよ」などといいます。

 刹那は、インドの語「クシャナ」の音訳で、時間の単位の1つです。経典に出てくる時間の単位を現在の時間に直すと、一昼夜(24時間)一須臾(48分)一臘縛(1分36秒)一怛刹那(5分の8秒)一刹那(75分の1秒)などとなるそうです。他にも説があるようですが、いずれにしても、刹那とは、非常に短い時間、瞬間ということになるのでしょう。

 ※読み   昼夜(ちゅうや)  須臾(しゅゆ)  臘縛(ろうばく)
      怛刹那(たんせつな) 刹那(せつな)

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善哉(ぜんざい)

 ぜんざいは、関西ではつぶしあんのしるこで、関東ではもちに濃いあんをかけたものをいいます。いずれにしても、甘い食べ物であることは、誰でも知っています。

 善哉はもともと、ほめたたえる語でした。インドの語「サードゥ」の訳で、善きかな、すばらしい、そのとおりだという意味です。古代インドでは、事を議するときに賛意を表す言葉だったそうですが、今でも一般の会話に用いられているとのことです。

 お釈迦さまも、弟子の意見に賛意と称賛の意をこめて、よく使われています。

 この言葉が、なぜ食べ物の名前になったのかはよくわかりませんが、一休禅師がぜんざいを賞味して、「善き善」といわれたので、善哉になったという伝説もあるとのことです。

 ぜんざいを食べるときには、心してその味を賞味ください。

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相好(そうごう)

 相好をくずすとは、こみあげてくる喜びのために、顔かたちをくずして笑う様子をいいますから、相好は顔かたちを指すものと思われます。

 仏教では、仏の身体に備わっている優れた特徴の内、大きな特徴である三十二相の[相]と、小さな特徴である八十随形好(ずいぎょうこう)の[好]を合わせた言葉で、仏の身体全体に備わっている大小さまざまな特徴のことを意味します。

 『観無量寿経』に「汝ら、心に仏を想うとき、是の心すなわち是れ三十二相八十随形好なり」とあるのがそれなのです。

 ですから、本来は、その人の人[相]が[好]ましいから相好というのではないのですよ。

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栴檀(せんだん)

 「栴檀は双葉より芳し」という諺があります。

 この「栴檀」とは、インド語の「チャンダナ」の音写で、白檀のことです。南方の木にしては材質がよく、工芸細工にも適していますが、何といっても素晴らしいのは、その香りです。『太平記』に「栴檀の林に入る者は、染めざるに衣自ら香し」と言っているほどです。

 学僧が集まって修行勉学するところを「栴檀林」「檀林」というのも、ここからきました。

 お釈迦さまはこの栴檀の木で火葬されたといいます。

 強烈な悪臭を放つ伊蘭草の林の中に、栴檀の中でも最も香気の強い牛頭栴檀が生えると、たちどころに伊蘭草の悪臭が消え去ると、仏典は説いています。そして、牛頭栴檀は、煩悩を消し去る念仏のはたらきに喩えていると教えています。

 栴檀と同様に、大成する人は幼いときからそのきざしがある、という諺です。

 ウチの子は、そのきざしが見えない? 心配いりません。「大器晩成」という諺もありますから。

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相続(そうぞく)

 税制改革が大きな話題となっています。相続税はどうなるのかと、ご心配な方もあるでしょう。遺産相続をめぐる争いも、よく耳にします。家督相続や跡目相続など、相続には、いろいろと問題も多いようですね。

 仏教では、すべての現象は諸行無常で、変化して一瞬一瞬生滅すると説きますが、その流れは継続するといいます。

 今、ここにローソクの火があります。この火それ自体は、一瞬に燃えつきて滅し、その直後に別の火が燃えて、それが絶え間なく連続するから、一つの火として燃えているように見える、というわけです。

 つまり非連続の連続。これが相続で、『倶舎論』などいろいろな仏典に出てくる仏教語なのです。

 その仏教語が現代使われているように、引き続き起こること、受け継ぐことの意味となって、一般にも用いられるようになりました。

 相続といっても、財産や名誉を相続することばかりに、うつつを抜かさないでくださいよ。お念仏相続という、大切な相続もあるのですからね。

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退屈(たいくつ)

 退屈といえば、何もすることがなく、ひまをもてあますことを意味する言葉として、日常よく使われています。あくびの1つも出そうな情景です。退屈しのぎという言葉もあります。

 しかし、退屈は、もともと仏教語で、仏道修行の苦しさやむずかしさに屈して、仏道を求める心が退き、精進努力する心を失うことを意味しました。

 そこから、くたびれて気力がおとろえること、畏縮(いしゅく)すること、困りはてること、年貢納入や契約履行といった義務をはたさぬことなどの意味になったようです。

 現在使われている意味とは、ずいぶん違っていますね。

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醍醐味(だいごみ)

 「ホームランこそ野球の醍醐味だよ」と、何ものにもかえられない楽しさ、真骨頂、妙味を醍醐味といっています。ゴルフの醍醐味、スキーの醍醐味という具合です。

 『涅槃経』というお経に、「五味」が説かれています。それは、「牛乳を精製していくと、その味は、乳味(にゅうみ)→酪味(らくみ)→生酥味(しょうそみ)→熟酥味(じゅくそみ)と、しだいに美味なものに変化し、最後の醍醐味になると、最高の味となる。その最高の味こそ涅槃の境地である」というのです。

 また、仏の最上の教法にたとえる場合もあります。

 醍醐味はインドの語で「サルピス」といい、純粋なバター状のものだったそうですが、このサルピスにカルシウムを加えて、「カルピス」という名がついたと聞きました。

 いずれにしても、醍醐味が満喫できれば、たいへん幸せなことですね。

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退治(たいじ)

 「桃太郎は鬼ガ島へ鬼を退治に行きました」−。桃太郎のお話は、誰でも知っている有名なおとぎ話です。その中の「退治」というのは、討ちたいらげること、攻めほろぼすこと、こらしめることをいいます。

 また、病気を治療する場合にもいうそうです。

 仏教では、仏道修行に専念しているとき、それを邪魔する煩悩の悪魔を降伏させて、さまざまな障害を断ち切ることを退治といいます。

 それでいくと桃太郎は、鬼ガ島の鬼を退治したとはいいますが、本当は、心の中の鬼を退治したのかもしれませんね。

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大衆(たいしゅう)

 大衆小説、大衆紛争、大衆芸能、大衆食堂、大衆酒場など、一時は「大衆○○」がはやりました。挙げ句の果てに「いかにも一般大衆の喜びそうな」というコマーシャルまで流れました。

 仏教では、「大衆」はダイシュと読み、大勢の人びとの集団、多勢の仲間、特に、出家修行者である比丘の集団をいいました。

 お釈迦さまが入滅した後、百年ほどの頃、仏教教団は、戒律をあくまで厳守すべきであるという保守伝統主義的な僧達と、これに反対する革新的寛容的な修行者グループに分裂しました。いわゆる根本分裂です。前者を上座部というのに対し、後者を大衆部といいました。

 大衆はそのほか、天台宗では教団の構成員である学生のことを、禅では修行僧のことをいうようです。

 この語がやがて、多数の人、民衆の意味で一般に使われるようになりました。後には、労働者・農民などの一般勤労階級をいう場合もあるようです。

 メーデーには、大衆の力が結集しますね。

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大乗(だいじょう)

 「大乗的見地に立って」といえば、小事の拘泥しないで、大局の観点に立って事を決しようとすることです。この大乗の語は「大乗仏教」からきた語です。

 インドでは、西暦紀元前後から新しい仏教運動が起こりました。それは、お釈迦さまの説かれた教えや戒律の一言一句を、そのまま守るのが仏教だという保守派に対して、そういう形式よりもお釈迦さまの精神をいただいて、絶えず変化する時代と社会のなかで、民衆の幸福を実現するために教えを生かすべきだという改革派の運動でした。

 彼らは、すべての人々が仏になりうる素質を備えていると考え、自利利他の菩薩道をかかげて「大乗仏教」と名乗り、出家者中心で自利中心の従来の仏教を「小乗仏教」と呼んで批判しました。もちろん、伝統的仏教とは、自らを小乗とは呼ばずに「上座部」といっていますが……。

 日本は大乗の国です。何事にも大乗的見地に立ってください。

 なお、本願寺が出版している「大乗」という雑誌もよろしく。

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大丈夫(だいじょうぶ)

 「あの人にまかせておけば大丈夫です。心配ありませんよ」というように、大丈夫とは、まちがいない、あぶなげない、非常にしっかりしている様子を意味しています。

 もともと、大丈夫は人のことを指しています。丈夫、つまり、ますらお、男子をほめていう言葉ですから、偉大な人、りっぱな人、しっかりした人のことをいいました。お経のなかでは、菩薩(ぼさつ)のことをいう場合も見受けられます。

 このような人は、たよりがいがあり、間違いもないところから、いまのように用いられるようになったのですね。

 しかし、本当の意味で大丈夫なのは、仏さま以外にないと……。

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沢庵(たくあん)

 「お茶漬けサラサラ、たくあんポリポリ」 日本人の食生活は多様化してきましたが、やっぱり、この味は忘れられませんね。

 「たくあん」は、たくさん漬ともいいますが、この大根漬を、なぜ、「たくあん」というのかについて、いろいろな説があるようです。

 沢庵和尚が漬けはじめたところからという説。貯え漬の転訛したものという説。沢庵和尚の墓の形が大根漬の重石に似ていたところからという説。墓の形が大根漬の形に似ていたからという説などです。

 ここに登場する沢庵和尚は、江戸時代初期の臨済宗の僧です。35歳で大徳寺の第一座となり、堺の南宗寺の住持。寛永6年(1629)紫衣事件で幕府と抗争し、出羽に配流のち赦されて宮中で経を講じ、徳川家光の帰依を受けて、品川に東海寺を開きました。

 この高僧の名前が、漬け物の名前になりました。

 それでは、このたくあんで、もう一膳。いただきま〜す。

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他生の縁(たしょうのえん)

 「袖振り合うも【タショウ】の縁」 【  】の部分を漢字で書けという問題が出ました。

 その解答には「多少」が圧倒的に多かったそうです。正解は「他生」です。辞書には「多生」というのもありますから、これも正解にしましょう。

 「他生」は、現在の生以外の生を意味しますから、前世か後世のことですし、「多生」は多くの生をいいます。

 人と人との出会いは不思議なものであり、厳かなものです。道ばたで人とすれ違うとき、袖がちょっと触れ合うほどのささいなことも、深い深いご縁があるのだ。だからこそ、出会いのご縁を大切にしようというのです。この諺は、この辺りを、しみじみとした、情味のある表現で示しています。

 この「他生の縁」は謡曲や狂言にも登場しますし、「一樹の陰一河の流れも他生の縁」という諺もあります。

 人間関係が希薄になった現代とはいえ、「多少の縁」では、ちょっと淋しすぎるとおもいませんか。

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達者(たっしゃ)

 「お達者で何よりですね」「この人は水泳が達者ですね」「あの人は芸達者ですよ」「お達者なお口ですこと」

 達者にはいろいろな意味があるようです。そういえば、NHKの朝の番組に「お達者くらぶ」というのがありましたね。

 芸術や技芸の道に熟達した人、ものごとに上手な人、ちょっと軽蔑の意味を込めて、したたか者、あるいは、健康状態の秀れていること、または、足の丈夫なことなど、その意味するところはさまざまです。

 聖徳太子の『十七条憲法』の第一条「和を以て貴しと為す」は有名ですが、その後に「亦、達者少し」という語句があります。この場合、達者を「さとれるもの」と読んでいます。

 仏教では、このように、真理に通達した者とか、さとった者のことを達者といいました。達人とか達道人という場合もあります。それが、さまざまな意味に発展していったのでしょう。

 皆さん、お達者でお過ごしくださいね。

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脱落(だつらく)

 プロ野球のペナントレースも終わりました。終盤まで優勝を争うチームもあれば、早くに優勝戦線から脱落するチームもあります。

 「脱落」は、文字どおり、抜け落ちることで、文章の中の重要な語句や文字が抜けることや、一緒にやっていけなくなって、仲間から取り残されることをいいますから、あまり良い意味では使われていませんね。

 「脱落」はもともと、仏教、とくに禅宗でよく用いられる言葉で「捨て去る」という意味です。我が捨て去られ、とらわれがなくなること、束縛がなくなることをいいますから、「解脱」と同じ意味です。「身心脱落」という語句も見受けられます。

 このように、脱落は煩悩を払い捨て悟りの境地に入ることを意味する語ですから、本当は喜ばしいことなのです。

 優勝争いから脱落したチームのファンの中には「まあ、こんなものサ」と、やけに悟り顔をしている人もいるとか……。

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他力本願(たりきほんがん)

 「この一敗で、自力優勝の道は絶望ですね。あとは、他力本願に頼るしかないですね」 スポーツ報道でよく聞かれる話です。

 この場合、これからいくら勝ち続けても優勝はできない。今度は相手が負けるのを待つしかない、という意味でしょう。

 このように「他力本願」は、もっぱら他人の力をあてにする、他人まかせという意味で、いろんな場面で使われています。これは大変な誤解です。

 親鸞聖人は『教行信証』に「他力といふは如来の本願なり」と明示しておられます。だから、他力とは、他人の力ではなく、仏の力、阿弥陀仏の慈悲のはたらきをいうのです。

 仏さまの生きとし生きるものを救わずにはおれないという強い願いのはたらき、これが「他力本願」なのです。

 一般末寺では、親鸞聖人の御正忌報恩講が勤められはじめました。この期に、聖人の根本の教えである「他力本願」を正しく理解し、聖人のみ教えに生きたいものですね。

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達磨(だるま)

 「ダルマさん、ダルマさん、にらめっこしましょう」と子どもたちからも親しまれ、また、縁起ものとされて、選挙のたびに登場するダルマは、中国禅宗の開祖といわれる菩提達磨(だるま)の座像をモデルにしたものです。

 菩提達磨は、南インドの禅僧で、中国に渡り、各地で禅を教えていました。

 洛陽東方の少林寺で、9年間、壁に向かって座禅をしていたため、手足が腐ってしまったとの伝説から、手足のない像ができたようです。

 菩提達磨の七転び八起きという不撓(ふとう)不屈の精神が、縁起物のダルマとなったのでしょう。

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檀那(だんな)

 ダンナさまとは、いろいろな場合に用いられます。例えば、主人のこと、夫のこと、お客のことなど、その意味はさまざまです。

 檀那(旦那)の語源はインドです。インドの語「ダーナ」が漢字になる時、音で「旦那」意味で「布施」と訳されました。ですから、旦那と布施は、同じ「ほどこし」という意味です。

 しかし、旦那は、やがて、布施をする人を指すようになりました。法施をする寺を檀那寺、財施をする家を檀家と呼んでいます。檀那は、仏教以外でも使われるようになり、金銭や物品をほどこしてくれる人を、誰でもダンナと呼んでいるようです。

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知事(ちじ)

 知事? そうです。都道府県の「知事」のことですよ。

 知事は、明治時代の初めに設けられた官職の一つで、造幣事務を取り扱う最高責任者でしたが、のちに、各都道府県を統括する代表者として、その最高責任者の職名となりました。

 中国では、知事は州や県などの地方の長官を指していましたから、それがわが国に入ってきたのでしょう。それが仏教と関係があるのかって? まあ聞いてください。

 仏教では、寺院の雑事や庶務をつかさどる僧の役名でした。よく庶務をつかさどり、教団の財物を保護し、諸僧の希望するものに適応し、戒律をよく保ち、公正な心の持ち主、そんな聖者を知事に任命しました。禅宗寺院には六知事が設けられ、庶務を分担しています。

 このように、仏教寺院にとって、仏道を修行する僧達のために、知事は重要な役割を持つ僧職でした。

 知事は、住民のための公僕ですよね。

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知識(ちしき)

 現代は情報化時代と呼ばれています。マスコミによって、多くの知識が洪水のように押し寄せてくる時代です。知識時代、知識人、知識階級、知識をつめこむなど、知識は考える働き、理解している内容という意味の日常語となっています。

 この「知識」が仏教語なのです。しかし、意味が違います。

 仏教では、友達とか、知り合いとか、親しい人のことを「知識」といいます。さらに、善知識(ぜんぢしき)を略してこう呼んでいます。善知識とは、仏縁を結ばせてくれる人、教え導いてくれる指導者を指します。

 『歎異抄』の序分にある「有縁の善知識」や、『恩徳讃』の「師主知識の恩徳も」の知識が、これに当たります。

 早く死んだ子が親に信仰生活を教えたという意味で「先立つ子は善知識なり」といったりします。

 受験戦争に勝つためには、多くの知識が必要ですが、良き友、優れた仲間、善き指導者という意味の知識も、人生には必要です。知識不足は寂しいですからね。

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中道(ちゅうどう)

 「修行者たちよ、二つの極端に近づくな。第一には欲望に自己を奪われて快楽にふけることである。それは低級であって無益なことだ。第二には自分で自分を苦しめることである。それは下等であって無益なことだ。どちらにもかたよらず、中道を歩め。これによって、眼をひらき、智を生じ、真の認識を得て澄みきったさとりに至ることができよう」

 お釈迦さまは、最初の説法の中で、このように、中道を説かれました。そして、具体的に8つの正しい実戦(八正道)を示されました。

 それによると、中道とは、単に2つの間の中ほどの道という意味ではなく、とらわれを離れ、厳しく現実の真の姿を見きわめ、正しく判断し行動せよということです。

 中道政治、中道政党、中道勢力など、最近中道という言葉が政治の世界で使われています。果たして、お釈迦さまの真意が通っていますかな?

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長者(ちょうじゃ)

 「長者番付」「億万長者」というように、長者は一般に、富豪や資産家を意味します。

 仏典にもよく長者が登場します。祇園精舎建立に努力した給孤独(きっこどく)長者や、『法華経』の長者窮子の喩えに出てくる長者など、おおむね、福徳を兼ね具えた資産家です。

 もともと、「長者」はインドの語で「グリハパティ」といい、家長を意味し、バラモン教の祭祀のときに、席に座る家長達の最長老を指しました。この祭には、高額の出費がかかり、資産家でないと務まらないところから、資産家の意味になったようです。

 長者は、そのほかにも、丈の高い者、年老いた人、徳の高い人、京都東寺の長なども意味し、広く用いられています。

 長者三代といいますが、長者番付を見ると、三代どころか、中には一年長者も多く、なんとも、めまぐるしい世の中ですね。

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頂戴(ちょうだい)

 「ありがたく頂戴します」といえば、ていねいに〈いただきます〉と応ずる言葉で、「もらう」のけんそん語です。

 これが「ちょっと、それを取って頂戴」となれば、親しく〈してください〉の意味になります。頂戴物とは、いただきもののことです。

 そんなニュアンスが日常生活で使われている「頂戴」という語にはあるようです。

 『十二礼(じゅうにらい)』というお経に「観音頂戴冠中住」とあります。観音さまが冠を頭の上に戴かれ、その冠の中に、仏がすんでいると説かれています。このように、頂戴とは、本来、頭の頂にのせることをいいます。仏さまや仏の教え、経典などを、頭にのせていただくことなのです。

 それが、いただき物などを、目よりも高くささげ、頭を低く下げて、もらったところから、今のような意味に用いられたのでしょう。

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塵積(ちりつ)もりて

 「百人を、五六人して、おいまわし」 お正月の風景を表した川柳です。やはり、お正月には、百人一首がよく似合うようです。

 子どもたちは、よく「いろはがるた」をしたものでした。「塵も積もれば山となる」というのがありましたね。わずかな物でも、積もり重なれば、高く大きなものとなることの例えなのですが、『広辞苑』によると、これは『大智度論』という経典に基づくとあります。

 そこで、その経典を見ますと、「微塵を積みて山と成す」とありました。

 仏教では、物質を最も微細に分割したものを「極微」といいます。現代的には、原子といってもいいでしょう。一極微を中心に、上下四方の六方に極微が集合した一団を「微塵」といいます。最小の物質とでもいいましょうか。「粉微塵になった」という、あの微塵です。

 そんな小さな微塵も、積もれば山となるのです。心得ておきたい文句ですね。

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通(つう)

 「あの人は芝居通だ」とか、食通・消息通などその道によく精通している人を、○○通だといいます。また、人情にゆきわたり、やぼでなく、さばけている人を、通人といったりします。

 この「通」は、仏教語の「神通力」から来た語のようです。神通力とは仏や菩薩(ぼさつ)の持つ、一般の人間の能力を超えた、不可思議で自由自在な活動能力のことです。

 自由に望む場所にあらわれたり、一般の人間の見られない所を見たり、聞けない声を聞いたり、他人の考えていることを知ったり、宿世の善悪を知ったり煩悩のけがれがなくなったことを知ったりするなどの能力で六神通と呼ばれています。

 お盆の話で有名な目連尊者は、この能力にすぐれ、神通第一と尊ばれていました。この神通力が、後に、神通や通力となり、さらに通となっていったようです。

 さて、あなたは何の通ですか。

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塔(とう)

 五重の塔、テレビ塔や広告塔、各地で見られる○○タワーなど、日本にはずいぶん塔が建っています。

 塔はインドの語「ストゥーパ」から来た語です。ストゥーパは漢字で卒都婆(そとば)や卒塔婆(そとうば)などと音訳され、それが塔婆となり、塔となりました。

 ストゥーパとは、古代インドで土まんじゅう型に土を盛りあげてつくられた墓のことで、廊とか塚とか音訳されていますが、後には霊地を表すなど、記念物の性格を持つようになりました。中国や日本の寺院では塔は重要な建築物とされ、シンボルとなっている寺さえあります。

 塔の建立は大きな功徳があるとの考えから、死者の追善のため細長い板に塔の形を切りこみ、墓に立てる板塔婆も出来ました。

 塔も板塔婆も、ももは同じだったのですが今では高くそびえる建物はみな、塔と呼ばれているようです。

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道場(どうじょう)

 「タノモ〜」「ド〜レ」 道場というと、どうも武道の道場を思い浮かべますね。剣道や柔道などの「道」を実践する「場」という意味でしょうが、最近では、受験道場やカラオケ道場など、いろんな道場ができました。

 道場は、本来、お釈迦さまが悟りを開いた所を意味します。仏教では、「道」は悟りのことですから、お釈迦さまが悟りを得た「場」、つまり、ブッダガヤの菩提樹下の金剛座が「道場」なのです。

 それがやがて、ところはどこでもよく「悟りを開く場所」をいうようになり、さらに、一般に「修行をする場所」となりました。

 初期の浄土真宗では、まだ寺院ではないが、信者が集まって念仏を称えるところを「道場」「念仏道場」と呼んでいました。

 この仏教語が、武芸を練習する場となったのですが、身体を鍛錬するだけでなく、精神をも修養したのです。

 いろんな道場へ通う皆さん、技術習得だけでなく、精神修養も心掛けてくださいね。

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堂々(どうどう)めぐり

 同じことをいつまでもくりかえし、いっこうに話が進展しないことを「堂々めぐりをしている」といいます。

 また、テレビの国会中継で、議員が壇上の議長席をとりまくように一列になって投票するシーンになると、「堂々めぐりに入りました」とアナウンスされています。

 「堂々めぐり」とは、もともと、文字通り、祈願や儀式のために、仏さまや仏堂のまわりをまわることでした。

 このように、お堂のまわりを、ぐるぐるまわったのが、やがて、ぐるぐるまわる意味が強くなり、現在にように使われたのでしょう。そういえば「堂々めぐり」という遊戯もありました。

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道具(どうぐ)

 大工道具や商売道具のように、今では、日常使う用具を「道具」と呼んでいますが、もとは仏[道]修行のための用[具]という意味で、修行僧の持ちものを「道具」といいました。

 修行僧の持ちものは、六物(ろくもつ)といって3種類の衣服、食器の鉢(はち)、坐具、飲み水をこすための布袋だけでした。修行生活に必要な最低の持ち物です。後に、十八物、百一物などが定められましたが、これらが、「道具」と呼ばれているものでした。

 定められたもの以上の余分のものは、長物(じょうもつ)といいました。4枚めの衣服などは、まさに「無用の長物」なのです。

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投機(とうき)

 投機という言葉は、今では、経済用語として広く使われています。価格の変動がある商品や有価証券に対して、市価の変動を利用し、その間の売買による差額を得るために行う取り引きのことをいっています。

 またうまく機会をとらえたり、ヤマをはったりという場合にも、この言葉が使われています。

 しかし、この「投機」は、もともと禅の用語で、師匠の心と弟子の心とが一致し投合することを意味します。心と心とが合致することによって、心が通じ、悟りがひらけることを「投機」といっているのです。

 禅の用語が経済用語になっているのは、おもしろいことですね。

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豆腐(とうふ)

 寒いですね。湯豆腐が恋しくなります。豆腐といえば、高野豆腐、南禅寺豆腐、空也豆腐などと、何となく仏教に関係があると思いませんか。

 豆腐が仏教語というわけではありませんが、豆腐は中国で作られ、入唐僧によって日本に伝えられ、まず寺院に普及し、やがて、民間にも広まっていったのですから、仏教に関係のある食べ物なのです。

 僧は漁食肉食をしなかったので、大切な蛋白源として愛用しました。油揚げ、生揚げ、がんもどきなどの材料ともなります。

 また、同じように、日本に渡来したものに味噌、納豆と饅頭があります。いずれも寺院から民間に普及し日本化しました。

 味噌は中国の鑑真が伝えたといわれ、納豆の初めは寺納豆といい、饅頭は入唐僧に随従して来日した中国人の弟子が製造した奈良饅頭が最初といわれています。仏教とともに渡来した食べ物は数多くあるのです。

 さて、今夜は湯豆腐で一パイなど……。

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灯明(とうみょう)

 沖縄への修学旅行で、戦争遺跡として平和教育の場となっている「糸数豪」へ入りました。当時、千人もの人が非難した巨大洞穴です。

 壕の中で懐中電灯を消すと、隣の人はおろか、自分の掌でさえ見えない、まさに真の闇です。その時、案内人の人が、小さなローソクを灯しました。その明るいこと、小さな光ですが、千里を照らすようで、闇を破る灯の威力を見せつけられました。

 仏前に供える灯火を「灯明」といいます。『施灯功徳経』は仏への供養こそ、功徳は広大であると説きます。

 また、灯明は迷いの闇を照破する智慧の光とされています。仏典に「灯明とは聖智慧」(大宝積経)、「世の灯明となりて最勝の福田なり」(無量寿経)とあります。仏法の伝統を「法灯」、それを伝えることを「伝灯」といいます。

 「心の灯明」「人生航路の一大灯明」と、灯明は大切なものなのです。

 都会では、真の闇は経験できなくなりましたが、闇が深ければ深いほど、灯火は輝くものですね。

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道楽(どうらく)

 「おやじギャル」「おじんギャル」をご存じですか。

 ゴルフ、カラオケ、温泉、パチンコ、競馬、屋台酒など、とにかく、今まではおやじたちのものと思われていた趣味を、自分の趣味として楽しむ女の子のことだそうです。

 趣味の世界も、時代とともに変わってきましたね。昔は「道楽」といいました。しかし、こちらは、道楽者とか道楽息子のように放蕩的な意味合いがあり、品行のよくないニュアンスがあります。

 仏教では、道楽とは「【道】を解して自ら【楽】しむこと」で、仏道修行によって得た悟りの楽しみを意味し、法悦の境界をいう言葉なのです。経典にも、「今己に道楽を得たり」(阿育王経)とあります。

 道は仏道だけではありませんから、道楽という語も、広く用いられるようになったのでしょうがそれにしても、ずいぶんかけ離れたものになったものですね。

 さて、ギャルたちは趣味の世界を広げていますよ。おやじたちはどうしましょうかね。

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兎角(とかく)

 「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」 夏目漱石の『草枕』の冒頭の名文です。

 「とかく浮世はままならぬ」「とかく人間というものは」「彼には、とかくのうわさがある」と、とかくは、いずれにしても・ややもすると・あれこれ等を意味し、とにかく・ともかく・とやかくなどに転化された副詞です。

 この「とかく」を「兎角」と書くのは、あて字だそうです。

 仏教には「兎角亀毛」という言葉があります。「兎の角(つの)」や「亀の毛」は、本来実在しないものですから、現実には無いのに、有ると錯覚したり、実体が無いのに、有ると幻想したりするとき、譬喩的に用いられる語です。仏教の中心思想である「縁起」や「空」を説くときよく使われ、迷いの世界の現象を表す言葉となっています。

 それが何故「とかく」のあて字になったのかわかりませんが、兎に角、錯覚や誤解ばかりしていると、この世は、よけい住みにくくなりますぞ。

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床の間(とこのま)

 もうすぐ、お正月です。床の間に、おめでたい書画を掛け、お正月らしい置物やお花を飾ると、初春をお祝いする雰囲気があふれてきます。

 室町時代には、僧家において壁に仏画を掛け、その前に押板を置き、その上に花、燭台、香炉を飾り、礼拝(らいはい)をしていました。その押板を床といいましたが、それがしだいに変化して、作りつけになったものが、床の間のもとの姿でした。

 つまり、床の間はお仏壇の遺風であるといわれています。

 後に、中国から宋元画が輸入されて、掛軸を飾る場所となったり、桃山時代には茶道の影響をうけたりして、床の間はしだいに変わっていきました。

 その頃の床の間は、正面の幅が広く奥行きは浅いものでしたが、これが今日のような姿になったのは、江戸時代の初めのころだと言われています。

 だれですか。床の間を物置代わりにしている人は。小さな空間ですが、生活のゆとりの場所ですぞ。大切にしてください。

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