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用語紹介(3/5)



高座(こうざ)

 寄席(よせ)では、演芸を演じる場所を高座といいます。劇場の舞台に匹敵するところです。ここで落語や講談、浪花節など演じられていることはご承知の通りです。

 寺院で法要のとき、導師のすわる仏前の一段高い座を登高座といい、説教のときに講師のすわる高い座を高座といいます。

 高座は、お釈迦さまが悟りを開かれた金剛宝座から始まり、その後、説教者や導師のすわる高座となっていたようです。

 寄席の高座は、説教者の高座から転じたものです。もともと、落語や講談、浪花節などの大衆話芸は、仏教と深いかかわりがあり、仏教の説教を母体として始まったものです。

 ところが、戦後、寺院の布教は、説教から講演式に変わり、演台の前で立って行われるようになりましたので説教者のすわる高座は、本堂から姿を消したところが多いようで、もっぱら、寄席にその名を残しているようです。

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講堂(こうどう)

 現在、講堂というと、誰でも思い出すのが学校の講堂です。入学式や卒業式をはじめ、いろいろな行事が行われるところです。

 しかし、講堂は本来、お寺の建物なのです。よくお寺の建物を七堂伽藍(がらん)といいますが、これは金堂、講堂、塔、鐘楼、経蔵、僧坊、食堂の7つのお堂をいいます。講堂はその中の1つで、説法をするところ、仏法の講義をするお堂のことで、お経にも釈尊が講堂で仏法を説かれたことがしばしば出てきます。

 学校を思い出すのは、講義をする場所がお寺から学校に変わったためなのですね。

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居士(こじ)

 何事にも一言意見を述べないと気の済まない性質の人を「一言居士」といいますね。また、浄土真宗以外で、法名の下に「居士」と書かれた位牌を見ることがあります。

 「居士」はインド語でグリハパティといい「家の主人」の意味で資産家の家長、長者、家主、在家、などと訳します。インドの諸都市では、資産家が有力な階級だったようで、大乗仏教では、このような居士たちが大変活躍しています。

 この中でも『維摩経』の主人公である維摩居士は有名です。彼は在家信者としてたいへん識見にすぐれ、仏弟子の中でも彼にたしなめられた人も多かったといいます。

 居士は在家で仏道修行する男子の尊称となりました。中国では、学徳が高くて仕官していない人のことで、隠者や処士ともいいます。

 一言居士は、「維摩居士」からきた言葉だとか、「一言抉(こじ)る」からきたなどの説がありますが、やはり、博学でなくては勤まらないようですよ。

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後生(ごしょう)

 許しを請うたり、おりいって事を頼んだりするとき「後生だから」といったり、「つまらん物を後生大事にしている」など、後生は日常語となっています。

 仏教では後生は、前生(ぜんしょう)・今生(こんじょう)と対応して、来生、あの世、死後の世の意味です。また、極楽に生まれかわり安楽を得ることも後生といいます。

 白骨のご文章に「たれの人も、はやく後生の一大事を心にかけて」とあるのがそれです。

 極楽に生まれるため、この世で徳行を積むこと、功徳としての慈悲深い行いという意味もあるそうですから、「後生だから」は「お慈悲と思って」との意味になるのでしょうか。

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炬燵(こたつ)

 朝晩は肌寒くなってきました。気候がいい時季は短いというように、炬燵が必要になるのももうすぐでしょう。

 「炬燵」が仏教語というわけではありませんが、中世に中国から禅宗とともに日本に入ってきたと言われますから、当時の舶来文化の一つだったようです。

 炬燵は、もとは「火搨子(かとうし)」といいましたが、その唐宋音が訛ったものといわれています。

 搨子とは腰掛けのことですから、火搨子は床を切って炉を設け、上にやぐらを置いたものですが、日本では、それに布団をかけ、その中にもぐりこんで暖をとりました。また、床を切らずに、やぐらの中に火を入れた置き炬燵もあります。

 炬燵によく似た「行火(あんか)」も禅宗によって一般化しました。「行」は持ち運びのできるものという意味ですから、こちらは炭火を入れて持ち運んだものです。

 「四角でも炬燵は野暮なものでなし」  粋な川柳ですね。

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言語道断(ごんごどうだん)

 「言語道断だ」などといえば「もってのほかだ」「とんでもないことだ」「あきれてものがいえぬ」などと、たいへん手厳しく判断する言葉として、一般には使われています。

 しかし、この「言語道断」という言葉は、もともと仏教語で、「さとりの境地や真理の世界は、言語や文字では、とても表すことのできないほど、奥深いものである」という意味なのです。

 言語同断と書かれているものも見受けられますが、いずれにしても、言葉では表現しえない深い真理を指しています。

 同じ言葉でも、変われば変わるものですね。

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根性(こんじょう)

 地方の予選から甲子園大会の決勝戦まで、一度負ければ姿を消すという過酷な戦い。それが高校野球です。そこには、幾多のドラマが展開され、根性物語が語られています。

 現在、一般に使われている根性には、二つの意味があるようです。

 一つは、その人の生まれつきの根本的な性質で、心根や性根と同じ意味ですが、「根性悪」「ひがみ根性」「根性まがり」果てには「根性をたたき直せ」など、どうも悪いニュアンスが漂っているようです。

 二つは、激しい訓練にもくじけない強い気質を指しています。選手たちの根性物語はこの方です。

 仏教では、仏の教えを受ける者としての、宗教的素質、能力や性質のことを、根性といいます。

 根性には優劣があって、仏はその人の根性に応じて、教えの内容や説法の仕方を変えたといわれています。

 選手の皆さん、大会では日頃の厳しい練習の成果を発揮してください。

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金輪際(こんりんざい)

 「もう金輪際いたしません」というように、金輪際は、ふつう「絶対に」とか「どんなことがあっても」とかいうような意味に使われています。

 仏教の宇宙観によれば、虚空のなかに風輪という円筒状の気体の層が浮かんでおり、その上に水輪という水の層、さらに、その上に金輪という個体の層があって、それが大地を支えているということです。

 そして、私たちの住んでいる金輪の最下端、つまり、金輪と水輪とのさかいめを金輪際と呼んでいます。

 私たちにとっては、これより先のない、ぎりぎりのところという意味なのです。

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沙汰(さた)

 「ご無沙汰しています」

 何気なく使っている言葉ですが、「沙汰」とはどんな意味かご存知ですか。

 『広辞苑』を見ると (1)淘汰 (2)評定、裁断、訴訟 (3)政務の裁断処理 (4)処置、取り扱い (5)主君や官府の指令 (6)たより、音信 (7)評判 (8)行い、しわざ、事件と、数多くの意味がありました。

 「地獄の沙汰も金次第」は (2)、「追って沙汰する」は (5)、「正気の沙汰」は (8)、「ご無沙汰」は (6)の意味になります。

 この「沙汰」の出典は仏典だといいます。『仏教語大辞典』には「揀択遺棄の意。排斥。沙金を淘汰して沙を捨て金をとることで、不要のものを去り、有用のものをとる吟味のこと」とし、いくつかの仏典を示しています。そしてさらに、唐の武帝が考試によって僧をしらべ、真に僧たる学力を有する者以外は還俗させた会昌の排仏を会昌沙汰というと紹介しています。

 本来は選択沙汰の意味ですね。

 さて、金あまり現象の日本ですが、本当に「地獄の沙汰」は金次第ですかね。

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沙羅双樹(さらそうじゅ)

 『増鏡』に「きさらぎの中の五日は鶴の林にたき木尽きにし日なれば」とあります。

 きさらぎは2月、中の五日は15日、鶴の林は沙羅双樹のことで、たき木尽きにしは『法華経』の「仏此の夜滅度したもうこと、薪尽きて火の滅ゆるが如し」からきたものです。

 つまり、2月15日はお釈迦さまが沙羅の樹林で涅槃に入られた日であるというのです。沙羅はヒマラヤ山麓からインド全域にみられる半落葉性の高木で、白い花を咲かせます。

 お釈迦さまの入滅のとき、この木は季節はずれの花を咲かせ、花びらをお釈迦さまの遺体にふりそそいだといい、さらに、悲しみのあまりあたかも白い鶴のように色が変わり首を垂れたと『大般涅槃経』はいいます。これから沙羅双樹を鶴の林といいました。

 「沙羅双樹の花の色」(平家物語)

 双樹は、2本の木とか、根は1つで幹が2本の木だとか、全部で8本あったとかと、種々の説があります。

 2月15日は涅槃会です。お釈迦さまの遺徳を偲びましょう。

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懺悔(ざんげ)

 「へぇ〜、懺悔は仏教語ですか。キリスト教の言葉じゃないのですか」と、尋ねられました。

 なるほど「ザンゲ」は、今ではキリスト教の雰囲気を感じる語ですね。しかし、本来は「サンゲ」と読み、仏教語なのです。

 インドの語「クシャマ」を音写すると「懺摩」。意訳すると「悔む」となります。そこで、これを合成して「懺悔」となりました。くやむこと。人に罪のゆるしを請うこと。自分の犯した罪を仏の前に告白すること。悔い改めることを意味します。

 原始仏教では、半月ごとに布薩という儀式を行い、戒律の箇条が読み上げられ、罪があるときには自分で申し出て、告白して裁きを受けました。これが懺悔で、この時の作法を懺悔五法といいます。

 『御文章』には「つみは十悪五逆謗法闡提のともがらなれども、廻心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して」とあります。

 自力をひるがえして、他力に帰する意味だと教えられました。

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三千世界(さんぜんせかい)

 「三千世界の鳥を殺し、主と朝寝がしてみたい」。高杉晋作の作といわれる、しゃれた都々逸(どどいつ)です。浄瑠璃『伽羅先代萩』にも「三千世界に子を持った親の心は皆一つ」とあります。

 古代インド人の世界観によると、世界は須弥山を中心に、四大洲、九山八海、日、月などから構成されているとしていますから、太陽系世界ですかね。

 この一世界が千個集まったのを小千世界。小千世界が千個集まって中千世界。中千世界が千個集まったのを大千世界といいます。大千世界は、小中大の三種類の世界を含むので、三千世界とも三千大千世界ともいうのです。

 ですから、三千の世界ではなくて、十億の世界ということになります。

 これが一仏の教化の範囲なので、一仏国と呼ばれています。気の遠くなるような広さですね。

 『浄土和讃』はいいます。

  たとひ大千世界に   みてらん火をもすぎゆきて
  仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり

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三蔵法師(さんぞうほうし)

 三蔵法師といえば、あの『西遊記』を思い出す人が多いことでしょう。孫悟空・沙悟浄・猪八戒という弟子たちに助けられながら、中国から天竺(インド)へ、お経を求めて旅をするお話です。

 お釈迦さまの説かれた教法をまとめたものを『経蔵』といい、お釈迦さまが定められた戒律をまとめたものを『律蔵』。経と律に対して弟子たちが注釈したものを『論蔵』といいます。これが三蔵です。いわば、仏教聖典のすべてというわけです。

 この三蔵に精通し、経典を中国語に翻訳した僧を、三蔵法師と呼びました。だから、三蔵法師は多くおられたことになります。

 その中の一人、玄奘という名の三蔵法師は、唐の時代の学僧で、経典を求めてシルクロードを経てインドに入り、帰国後、多くの経典を翻訳しました。そしてその旅行記『大唐西域記』は、当時のインドや中央アジアに関する貴重な資料となったのです。

 『西遊記』は、これをモデルにして作られたものです。

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三昧(さんまい)

 「読書三昧」や「ゴルフ三昧」などと、日常使われているように、一つの事に熱中して他の事に心が向かないことを「××三昧」と呼んでいます。

 この三昧は、インドの語「サマーディ」を音訳した語で、精神を一つの事に集中して乱さないことをいい、仏道修行上、大切な仏教語なのです。

 親鸞聖人は、比叡山で修行しておられた頃、常行堂で常行三昧をおさめられました。これは、伝教大師の説かれた四種三昧の一つで、阿弥陀仏のまわりを90日間めぐり歩いて、不断念仏をおさめる修行です。

 このように、三昧は、精神集中という意味でひんぱんに使われる言葉なので、一般にも浸透していったのでしょう。

 しかし、同じ三昧でも、「念仏三昧」は、ありがたいことですが、ぜいたく三昧」や「刃物三昧」「道楽三昧」などは、ちょっと困りますね。

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自覚(じかく)

 1月15日は成人の日です。毎年、多くの若者たちが、各地で成人式を挙げ、おとなの仲間入りをします。

 「国民の祝日に関する法律」によると、成人の日とは「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」祝日であるとされています。

 「自覚する」ということは、自分の地位・状態・価値などを知り、自分のあり方をわきまえることをいいます。また、自覚症状などというように自分で感じることを意味する日常語です。

 仏教では、「覚」は「さとる」ことですから、「自覚」はみずから覚ることです。さらに、みずから覚るだけでなく、教えを説いて他人を覚らせることを「自覚覚他」といいます。これは菩薩の実践行です。

 『大乗義章』に「覚行窮満(ぐうまう)、故に名づけて仏となす」とあります。覚行窮満とは、自覚と覚他の行が完全であるということですから、これは仏だと説いています。

 成人式は毎年、本願寺でも行われています。

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志願(しがん)

 学校の入学試験のシーズンも終わりに近づいてきますと、学校によっては、志願者数・合格者数・入学者数などが発表されています。

 志願は、今では学校の入学試験に欠かせない言葉となっていますが、もとは仏教語なのです。

 仏教では、文字通り志して願うことで、心の底から深く願うことをいいます。

 『無量寿経』というお経の中に「世自在王仏、その志願の深広なることを知らしめして」とあるように、大事な願いのときに用いられている語なのです。

 ですから、本来の意味からいうと、すべり止めのために志願するのは、困りますね。

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四苦八苦(しくはっく)

 お釈迦さまは、最初の説法で「人生は苦である」と教えられ、その姿として四苦八苦を説かれました。

 四苦とは、生・老・病・死という人間としての根本的な苦を指しています。

 この四苦に、愛するものと離れねばならない愛別離苦、いやなものに会わねばならない怨憎会苦(おんぞうえく)、欲しいものが手に入らぬ求不得苦(ぐふとっく)、人間の心身を形成する五要素から起こる五陰盛苦(ごおんじょうく)の4つを加えて、八苦とされたのです。

 現在、非常に苦しむという意味でよく「四苦八苦だ」などといいますが、それはお釈迦さまの説法から来た言葉なのです。

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獅子身中の虫(しししんちゅうのむし)

 『梵網経』というお経のなかに「師子身中の虫、自ら師子の肉を食う」というたとえの文があります。師子は獅子・ライオンのことを指しています。

 ライオンの体内に寄生している虫は、ライオンの体のなかに住んで恩恵を受けているにもかかわらず、その肉を食い、しかも身内の者のような顔をしていると、説明しています。そして、仏弟子のなかにも、この虫のような者がいて、仏教徒の顔をしながら、実は仏法を破っていると、警告しているのです。

 このたとえが「獅子身中の虫」という諺(ことわざ)になりました。

 団体やグループなどで、味方のような顔をしながら内部から禍(わざわい)を発生させる者、恩を仇で返す者、裏切り者を指しています。

 百獣の王といわれるライオンでも、内部からの禍はおそろしいということです。

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獅子奮迅(ししふんじん)

 「野茂はすごい」プロ野球ファンは唸ります。何しろ三振の山を築き、記録を塗り替え、MVPをはじめ多くのタイトルを独占し、新人と思えないような獅子奮迅の活躍でした。

 獅子奮迅とは、獅子が奮い立ったように、勢いの盛んなことをいい、大活躍をする状態を形容する日常語です。

 仏教は、獅子は師子とと書きます。仏典に「諸仏の師子奮迅の力」(法華経)「師子王自在奮迅のごとし」(大般若経)とあります。

 仏が大悲の身を奮い、衆生のために外道などの小獣を畏伏させる、その様子が、獅子を奮迅するのに似ているので、これを「師子奮迅三昧」といいます。仏が入る三昧です。

 獅子は百獣の王です。仏も人間の王であり、獅子にも喩えるべきお方という意味で、仏教では、仏を獅子に喩えています。仏の座を師子座、仏の歩みを師子歩、仏の説法を獅子吼という具合です。

 そういえば、プロ野球ファンには「神さま、仏さま、稲尾様」といった昔が懐かしいですね。

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師匠(ししょう)

 「先生といわれるほどの……でなし」と、陰口をたたかれるほど、先生という名称は、どの分野でも、用いられるようになりました。

 先生ほどではありませんが、師匠という名称も広い範囲で使われています。

 師匠は、もともと仏教の師のことをいいました。匠とは大工という意味です。師が弟子に、仏道修行の基本的な修行である戒(戒律)・定(禅定)・慧(智慧)の三学を育成するそのやり方が、ちょうど工匠が器をたくみに造り上げていくのと同じだというところから、たとえて匠といったのが始めです。

 師匠はその後、学問や芸術、または武芸などを教える人をもさすようになり、近世以後は、歌舞音曲など、遊芸の教授も「お師匠さん」と呼ぶようになりました。とくに落語界などではすっかり定着しています。

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自然(しぜん)

 「自然」は、おのずからそうなっているさま、天然のままで人為の加わらないことを言う言葉ですが、英語の「ネイチャー」を「自然」と訳してからは、自然界、自然科学、自然主義、自然食品など、各方面で用いられるようになりました。

 仏教では、「ジネン」と読み、人為を加えずに、おのずからそうなっていることを意味し、仏教の真理を表す語です。

 親鸞聖人は「自然法爾」を説きます。「救済は人間のはからいによって成立することではなくて、本願力の自ずからなるはからいによって、往生成仏せしめられることを自然といい」「自然と法爾を同義語とされた」と『註釈版聖典』(1500頁)は解説しています。

 自然環境の破壊が問題となっていますが、皆さんの心の中は大丈夫ですか。

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四天王(してんのう)

 ゴルフ界の三羽烏(がらす)とか歌謡界のご三家など、ある分野で優れた人が3人いると、一まとめにこう呼んでいますが、4人の場合にはよく「四天王」といいます。わが社の酒豪四天王やカラオケ四天王など、世間にはいろいろな四天王がいるものです。

 仏教でいう四天王は、世界の中心にそびえる須弥山(しゅみせん)の中腹にある四方の天にいる主で、帝釈天(たいしゃくてん)に仕え仏法を守護する四神のことです。東方の持国天、南方の増長天、西方の広目天、北方の多聞天(毘沙門天)です。

 これらは勇猛な神なので、武勇に優れた4人を四天王と呼びました。渡辺綱・坂田金時・碓井貞光・卜部季武は源頼光の四天王ですが、源義経の四天王、織田信長の四天王、徳川家康の四天王は誰かをご存知ですか。やがて、和歌の四天王とか弓馬の四天王などと広い分野にも用いられ、今日のようになったようです。

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慈悲(じひ)

 「お慈悲と思って」「なんと無慈悲な」と、「慈悲」は情けや哀れみを意味する言葉です。

 「慈」はインドの語でマイトリーといい、友から派生した語で、最高の友情をいいます。「悲」はカルナーで呻(うめ)きをいい、哀れみや情け、同情を意味する言葉です。この2つが1つになって「慈悲」となり、生きとし生けるものに対する、いつくしみ、あわれみの情を意味します。

 『大智度論』に「慈悲は仏道の根本なり」とあるように、慈悲は大切な仏道実践でした。

 『観無量寿経』には「仏心とは大慈悲これなり」とあり、仏が苦悩する衆生を救わずにはおれない心をいいます。『正信偈』の「大悲無倦常照我」がそれです。

 「慈」は【与薬】で父の愛、「悲」は【抜苦】で母の愛、と説く経典もあります。

 「家庭とは、父厳しくて母やさし、それでいいのだ、うちは違うが」という川柳を作った中学生がいましたよ。

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娑婆(しゃば)

 テレビドラマなどを見ていると、刑務所から出所してくる場面で「シャバに出る」とか「シャバの空気はうまい」「シャバの風は冷たい」などといって、自由な解放された世界を娑婆と呼んでいるようです。

 しかし、娑婆とはインドの語「サハー」の音訳で、堪え忍ぶ土地という意味です。現実は苦しみや悩みが満ちていて、人はそれを堪え忍んでいるところから、現実の世界のことを指しています。

 親鸞聖人が、和讃に「娑婆永劫(ようごう)の苦をすてて」と詠じておられるのがそれです。

 だから、娑婆はそんなに自由な世界ではないのですがね。

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舎利(しゃり)

 「舎利」はインド語の「シャリーラ」を音写した言葉です。シャリーラとは、もともと身体を意味する語ですが、やがて、遺骨、特に聖者の遺骨を意味する言葉になりました。お釈迦さまの遺骨を仏舎利といいます。

 お釈迦さまがお亡くなりになったとき、その遺体は火葬にされました。その遺骨を求め、8つの部族が争ったそうですが、結局、遺骨を8等分しました。仏舎利をもらった8つの部族は、それぞれその遺骨を自分の国に持ち帰り、塔を建てました。それが仏舎利塔です。

 舎利崇拝が盛んだったのでしょう。遺骨は仏の身体そのものと考えられていたようです。

 後世、アショーカ王は、8カ所に埋葬されていた遺骨を、さらに分骨し、全インドに8万4千の仏舎利塔を建てたと伝えられています。

 現在、すし屋などで、白い米飯のことを、俗に「シャリ」と呼んでいるのは、銀飯の艶やかな色や形が、仏舎利に似ているところからきたといいます。

 銀シャリ、なつかしい言葉です。

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自由自在(じゆうじざい)

 ベルリンの壁以来、「自由」という言葉が、世界中を駆け回っています。

 仏教では、あらゆる束縛から解き放たれた境地を「自由」といいます。悟りの境地のことです。他のものの影響や支配を受けることなく、独立自尊で、それ自身において存在することのできる、安らかな境地をいいます。

 自由であれば、自分の思い通りの存在となれるので、これを「自在」といいます。

 仏や菩薩はそのような力を具えているので、仏のことを自在人といい、観世音菩薩のことを観自在菩薩といいます。その自在の力には、世の中を見抜く自在、説法・教化をなしうる自在、自由に種々の国土に生まれ、国土を清浄にする自在、寿命を伸縮できる自在など、種々の自在が説かれています。

 だから、自由自在とは、何ものにもとらわれることのない、のびのびとした安らかな心身の境地と、そこから現れる、とらわれない働きをいうのです。

 決して、わがまま勝手なことではありませんゾ。

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出世(しゅっせ)

 立身出世という言葉があります。成功して名をあげることを指しています。

 出世とは、本来、仏が衆生を救うために、かりに人間の姿となって、この世に出現されることをいいます。「仏出世本懐」などと説かれるのも、この意味です。

 また、世間的なことを越える意味で、迷いの世俗の世界を越えて仏道に入ることを、出世間とも出世ともいいます。

 日本では、公卿の子息が出家した場合に出世と呼ばれました。普通の者より昇進が早かったそうで、転じて僧が高い位に昇ることを指すようになり、一般にも広まったようです。

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寿命(じゅみょう)

 アメリカ疾病対策センターの発表によると、平均寿命は先進33カ国中、日本が1位だそうです。以下、スイス、アイスランド、スウェーデンと西欧の高福祉国が並んでいますが、日本は飛び抜けて高いと指摘されています。

 死亡率ももっても低く、まさに、日本は世界一の長寿国です。

 仏教では、生命のことを「寿命」とか「命根」といいます。この世に生まれてから死ぬまでのあいだ持続し、体温(煖:なん)と意識(識)とを維持するものです。寿は煖・識を維持し、煖・識はまた寿を維持し、両者は相依の関係で、死ぬときには、この寿・煖・識が肉体から去ると説明しています。

 その寿命の長さを寿量といいますが、時代と自然によって、人の寿命には長短の差があるといいます。

 『阿弥陀経』に「かの仏の寿命およびその人民も無量無辺阿僧祇劫なり。ゆえに阿弥陀と名づく」とあり、阿弥陀仏の寿命は限りなく、無量寿なのです。

 日本は世界一の長寿国ですが、お年寄りが世界一生き甲斐の持てる国にしたいものですね。

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成就(じょうじゅ)

 入学試験のシーズンももう終わりです。受験生やご家族にとっては、苦しい毎日だったと思います。さて、大願は成就されたでしょうか。

 「成就」とは、できあがること、成し遂げること、願いや目的が成し遂げられることを意味する日常用語です。

 仏教では、「成就」は身に具えていることを意味します。智や徳を完全に身に具えていることですが、煩悩成就の凡夫などという言葉もあります。

 『倶舎論』には「得に二種あり」として、今まさに得ようとするところを「獲」といい、得終わってさらにそれを維持していることを「成就」と呼ぶと記されています。

 また「成就」は完成することを意味します。「菩薩の諸波羅蜜を成就せむ」という具合です。阿弥陀仏が本願を成就したことを説いた経文を「成就文」といいます。菩薩の十力の「成就衆生力」は、衆生を救済し、仏となることを成就させる力のことです。

 受験生のみなさん、大願成就の喜びの報告を期待しています。

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精進(しょうじん)

 精進料理といえば、魚や肉類を使わない料理であることは誰でも知っています。

 祭や葬式の後のように、心身を清める精進の期間が終わると、精進落ちとか精進明けと称して、肉食飲酒の宴がもたれるのをよく見かけます。

 精進とは、もともと、仏教の実戦徳目である「六波羅蜜(ろっぱらみつ)」の1つで、[精]魂をこめて励み[進]むこと、努力精励することをいいます。このことから、一般に努力することを意味し、手紙などに「ますますご精進ください」などと書かれたりしています。

 この精進に、日本では新しい意味がつけ加わりました。仏教が伝来する以前から、神事で行われていた潔斎(けっさい)と結びついて、精進潔斎といわれるようになったのです。心身を清め、行いをつつしむというものです。

 肉や魚を使わない精進料理は、この意味から来たのでした。

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冗談(じょうだん)

 「あの人は、よく冗談をとばすよ」とか、「冗談はよしてください」などという言葉は、一般に、ふざけた話し、滑稽(こっけい)な言葉、あるいはユーモアのある会話などの意味に使われています。

 「冗談半分」というと、まじめな話とおどけた話が、半ばまじっているのでしょう。

 仏教では、仏道の修行に関係のない無用な対話を、冗談と呼んでいます。冗とは、むだ、不要、あまっているという意味ですから無駄話という意味なのでしょう。

 それが、やがて、仏道修行以外の場でも用いられるようになり、現在のような日常語になっていったようです。

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正念場(しょうねんば)

 新聞には「国会、正念場をむかえる」「外交交渉の正念場だ」。テレビでは「マラソンの正念場にさしかかりました」「金メダルの正念場です」。スポーツ新聞には「ペナントレースの正念場です」。

 「正念場」はいろいろな分野で用いられています。しかし、正念場として、最も有名なのは、歌舞伎、浄瑠璃で、一曲一場の大事な見せ場、主人公がその役の本領を発揮する最も重要な場面を指します。

 これから転じて、ここぞという大事な場面や局面をいうようになりました。

 お釈迦さまが初めての説法のとき、八聖道という、仏教の実践方法を示されましたが、その一つが「正念」で、邪念を離れて仏道を思い念ずることをいいます。

 また『末灯鈔』には「正念といふは本弘誓願の信楽定まるをいふなり」と、本願を疑いなく信ずる心の定まったことを正念といっています。

 正念場とは、そんな大事な場をいうのです。みなさんの正念場は、いつですか。

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上品(じょうひん)・下品(げひん)

 世間では、品性が立派なことを上品、下劣なことを下品といっています。

 仏教では、上品を「ジョウボン」、下品を「ゲボン」と読みます。浄土教では極楽に往生する人を、その能力や性質などから9種類に分けて九品(くぼん)と称し、上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・中品中生・中品下生・下品上生・下品中生・下品下生としています。

 『観無量寿経』によると、下品下生のものは、この世でのさまざまな悪行の結果、地獄に墜(お)ちる人間ですが、最終的には、阿弥陀仏に救われて極楽浄土に往生すると説かれています。日常用語の上品と下品は、ここから来たのです。

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諸行無常(しょぎょうむじょう)

 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」『平家物語』の語り出しの有名な一句です。

 インドの祇園精舎には無常堂があり、その四隅の軒にさげられている鐘は、諸行僧が命を終わろうとするとき「諸行無常」の四句の偈を響かせ、僧を極楽浄土へ導いたといいます。

 このように、諸行無常は人生のはかなさ、生命のもろさ、そしてときには死を意味する言葉として、日本人なじみの深い語句となっています。

 しかし、本来、諸行無常とは、この世のものはたえまなく変化し続けているという事実を、ありのままに述べたもので、仏教の真理の一つなのです。

 人が死ぬのも無常ですが、生まれるのも無常、生長するのも無常だというのです。没落するのも無常ですが、不幸な人が幸福に恵まれるのも無常なのです。

 万物は流転しています。だからこそ、努力するのであり、一刻一刻が貴重なのであり、限りある生命を大切にするのです。

 けっして、無情ではありませんぞ。

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初心(しょしん)

 入学式や入社式のシーズンになりますと、何となく新鮮で、能楽の世阿弥元清(ぜあみもときよ)の言った「初心忘るべからず」の名句がぴったりの風景が展開されます。

 初心とは、最初の決心・思い立った初めの心という意味ですが、他に、習い初め、未熟とか、世なれない、うぶとかの意味もあるそうです。

 この初心は、もともと、仏教語の「初発心」から来た言葉で、初めて悟りを求める心を発(おこ)すことをいいます。

 『華厳経』というお経に「初発心の時、すなわち正覚を成ず」とありますが、初めて悟りを求める心をおこすとき、正しい悟りへの道は開かれているという意味で、初心はたいへん大切だということを表したものです。世阿弥の名句は、このお経の文句から生まれたといわれています。

 みなさん、初心を忘れてはいませんか。もう一度思い出してみたいものです。

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食堂(しょくどう)

 学校の食堂や列車の食堂車など、文字通り食事をする場所が食堂です。最近では、レストランなどと外来語で呼ぶ場合が増えたようです。

 この食堂は仏教語で、お釈迦さまの時代からあったようです。ただ、仏教ではこれを「ショクドウ」といわずに「ジキドウ」と呼んで、七堂伽藍(がらん)の1つでした。

 禅宗では、浴室(風呂)・僧堂(しょくどう)・西浄(べんじょ)を三黙堂といって、話をしてはいけない場所になっています。

 仏道修行の立場からは、食事も大切な修行の1つなので、現在でも禅寺の食堂では、規律の厳しい厳粛な場所となっています。

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所詮(しょせん)

 「所詮、われわれにはどうにもならないことだよ」と、「所詮」は、要するに、結局、どうせなどという意味の副詞として知られています。

 仏典には、よく「能」と「所」とが対になって登場します。「能」は能動的に、ある動作の主体となるもの、「所」は受動的に、その動作の客体となるものを示しています。

 たとえば、見る眼を「能見」、見られる対象を「所見」、行ずるものは「能行」、行ぜられる事柄は「所行」、教化する者は「能化」、教化される者は「所化」といった具合です。

 この「所詮」も同じように「能詮」に対する言葉です。詮は「つぶさに説く」という意味ですから、能詮は説明するもの、つまり、言葉や文字であるのに対し、所詮は、その言葉や文字によって表された内容をいいます。

 所詮は、経文に表された義理という意味から、究極、最後の目的という意味になり、現在のように用いられるようになりました。

 まわりくどい説明になりましたが、所詮、仏の教えのことですね。

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しょっちゅう

 「あの子はしょっちゅう、ファミコンばかりやっている」「あいつは、しょっちゅう、遅刻している」。いつも、常に、終始というときに「しょっちゅう」という言葉を使います。

 えっ、これも仏教語? まあ、そんなに驚かないで、話を聞いてください。

 お釈迦さまが説法を始められて、60人の弟子ができたときのことです。彼らを集めて、「弟子たちよ、汝らは世の束縛を脱して、心の自由を体得した。これからは世の人々の利益と幸福のために、諸国を遍歴せよ。二人して一つの道を行くな」と、宣言されました。

 そしてさらに「初め善く、中ごろも善く、終わりも善く、道理と表現を兼ね具えた法を説け」と諭されたのでした。

 『法華経』にも「正法を演説したもうに、初善、中善、後善なり」とあります。

 この「初中終(しょちゅうじゅう)」が訛って「しょっちゅう」となりました。

 だから、この言葉は、善いことに使ってもらいたいものですね。

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除夜の鐘(じょやのかね)

 おおみそかの夜、寺々でつかれる除夜の鐘の音を聞きながら、すぎ去った1年を思い、新しい年への期待をこめるのが日本人の習慣となっています。

 除夜とは、除夕(じょせき)ともいい、1年で最後の晩、おおみそかの夜のことです。

 行く年を送り、去る年を迎えるに当たって、私たちは過去の垢(あか)を落とします。部屋を掃除し、身体の垢を風呂で流します。

 しかし、心の垢はそう簡単に落ちるものではありません。私たちの心の垢は煩悩(ぼんのう)と言い、108もあるのです。その108の煩悩を除去し、清浄な心身で新年を迎えるため、寺々では108の鐘を、除夜につくのだといわれています。

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双六(すごろく)

 昔から、お正月の子供の遊びといえば、たこ上げ、はねつき、かるたと並んで双六があります。振り出しから上がりまで誰が早いかを争う楽しいゲームです。

 双六は古くインドに誕生しました。『涅槃経』にある波羅塞戯(はらそけ)がそれで、後に欧州でバックギャモン、中国や日本で双六と呼ばれるようになりました。

 双六には、古制双六と、絵双六の2種類がありました。

 古制双六は、『源氏物語』『枕草子』など多くの文献に現れ、古くから盛んに行われていましたが、賭博性が強く何回も禁止されています。

 絵双六は最初、仏法双六といい修行僧に天台の名目を教えるための絵でしたが、それが転じて浄土双六になりました。振り出しから地獄六道のありさまが描かれている所を通り、極楽浄土に上がるもので、その後、東海道を旅する道中双六など現在のようないろいろな双六となりました。

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