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用語紹介(2/5)



和尚(おしょう)

 「山寺の和尚(おしょう)さんは……」と、童謡にも登場する和尚さんは、僧を親しんだ呼び名として、おなじみになっています。その読み方も「オショウ」「ワジョウ」「カショウ」と宗派によってさまざまです。

 この和尚はインドの俗語「オッジャー」を音訳した語で、先生とか、親しく教えてくれる師匠とかの意味です。インドの宗教界で広く用いられ、仏教にもとり入れられました。

 その後、弟子をとる資格のある僧、授戒の時の僧や、高徳の僧を指したり、一時は官名にもなったりしたようですが、今では、僧一般を親しく呼ぶ語となっています。

 ただし、浄土真宗では和尚という呼び方はいたしませんね。

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億劫(おっくう)

 めんどうくさくて気の進まぬことをよく「おっくう」といいますが、これは仏教語の億劫(おっこう)がなまったものです。

 劫とは仏教でいう極めて長い時間で、縦・横・高さが40里(157キロ)の石山を長寿の人が100年に一度、柔らかい衣でなで、この石山が擦り切れてもまだ1劫は終わらないとか、40里四方の大きな城に芥子の実を充満させ、100年に1つずつその実を取り、全部なくなっても、まだ1劫は終わらないとか説明されています。

 阿弥陀仏の「五劫思惟(ごこうしゆい)の願」はその5倍ですから、随分長い間、お考えになられたのですね。

 さらに、億劫はその1億倍ということですから、気の遠くなるような時間です。『教行信証』に「真実の浄信は億劫にも獲がたし」の億劫がそれです。そんな長い時間を考えるのは、めんどうなのか。気の進まぬ仕事は時間がかかるのか。とにかく、億劫が「おっくう」になりました。

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お盆(おぼん)

 仏教行事の中でも最も一般化したのが〈お盆〉でしょう。盆踊り、盆灯篭(ぼんどうろう)から盆休みまで、正月と並べて親しまれている年中行事です。

 〈お盆〉は、正しくは盂蘭盆(うらぼん)といい、インドの語「ウランバナ」の音訳で、さかさにつりさげられる苦しみという意味です。

 目連尊者の母親が餓鬼道でそのような苦しみに会っている時、お釈迦さまの教えに従って、7月15日に多くの高僧たちに供養し、母親を救ったところから始められたもので、仏さまや祖先のご恩に感謝し力強く生きることを自覚する行事となりました。

 浄土真宗ではお盆のことを「歓喜会(かんぎえ)」とも呼んでいました。

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隠密(おんみつ)

 隠密はテレビの時代劇によく登場します。江戸時代の忍びの者のことであることは、よくご存知でしょう。伊賀者や甲賀者で代表されるように、専ら密偵を仕事とするスパイです。江戸幕府では表向きの監視役である目付に対し、隠し目付・忍び目付と呼ばれる陰の監視役でした。

 仏教では、仏の教えの本旨が表面に出ないで、言説の裏に内深く隠されていることをいいます。

 『教行信証』に「観無量寿経を按ずるに、顕彰(けんしょう)、隠密の義あり」とあるのがそれで、お経の文面だけを見ると、定散諸行と自力念仏が説かれていますが、その奥には他力念仏が明かされてあることをいうのです。

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懐石(かいせき)

 懐石料理といえば、茶席で招待した客に茶をすすめる前に出す手軽な料理のことで、茶懐石とも呼ばれています。

 仏教では、インド以来「非時食(ひじじき)戒」という定めによって、修行僧は正午から翌日の暁まで、食事を禁止されていました。現在でも南アジアでは、厳守されている定めです。

 そこで修行僧は、あたためた石を布に包んで腹に入れ、飢えや寒さを防いだのでした。これを薬石(やくせき)といいます。

 後に禅宗では晩に粥(かゆ)を食べたところから、一般に夕食のことを薬石と呼んでいますが、それは僧が健康を保つための薬という意味なのです。

 あたためた石をふところに入れて腹をあたためる程度に、腹を満たす料理という意味から、懐石料理となりました。

 懐石料理を食べるときには、昔の修行僧のことを思い出しては、いかがですか。

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海潮音(かいちょうおん)

 皆さんは、ヴェルレーヌの「秋の日のヴィオロンの……」とか、カール・ブッセの「山のあなたの空遠く……」の詩をご存知ですか。この有名な詩は、上田敏の訳詩集『海潮音』に収められています。

 『法華経』に「妙音観世音、梵音海潮音、かの世間の音に勝れり」とあります。梵音とは清らかな音声、尊い御声で、仏の声を称(たた)えていったもので、海潮音は、音の大きいのを海潮に譬(たと)えていったものですから、仏の真理の言葉は、大きく遠くまで伝わることを意味しています。

 上田敏は、このお経の文句から『海潮音』という題名をつけたのだそうです。

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開発(かいはつ)

 国土開発・電力開発・産業開発・技術開発などと使われているように、開発とは、山地などを切り開いて、天然資源をとり出し、産業をおこすことや、知識をひらき導くことを意味している日常用語です。

 教育界では、生徒の自発的な学習をうながすような教育方法を指しています。

 その開発は、仏教語としては「カイホツ」と読み、他人を悟らせること、自らの仏性をうち開くことをいいます。人間には誰でも仏になるタネがあり、それを開き明らかにすることをいうのです。

 仏教語の「カイホツ」が「カイハツ」になって、一般化したもののようです。

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餓鬼(がき)

 「ガキ大将」で代表されるように、ガキは子どものことを、いささかいやしんで呼ぶときに使われています。「うちのガキが学校でね」という具合です。

 餓鬼とは、本来、人間がこの世で行った行為の報いとして、次の世に受ける6つの世界(六道)つまり、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の1つで、この世での「むさぼり」の報いとして、飢えやかわきの苦しみが満ちた餓鬼道に落ちた者をいいます。

 お盆は、餓鬼道に落ちていた目連尊者の母親が、救われて天上界に登る物語からはじまったと伝えられています。

 育ち盛りの子どもは、よく食べるので、ガキといったとか……。

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覚悟(かくご)

 世間一般に「覚悟」といえば、あらかじめ心構えをすることや、心の用意をするという意味で使われています。

 また、「覚悟しろ」などという場合は、あきらめることや観念することのようです。

 本来、覚悟は眠りからさめること、目がさめていることを意味する言葉ですが、もともと、「覚」も「悟」も「さとり」ということですから、迷いを去り、真理を体得し、さとりの知恵を得ることを意味する仏教語だったのです。

 『広辞苑』には、それぞれの意味が書かれてあるものの、仏教語としての意味で使われることは、ほとんどないようです。

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学生(がくせい)

 寺子屋ネットの会員は学生さんが多く、会員の約7割を占めています。

 仏教では、学生は「ガクショウ」と読み、学匠とも書きます。もとは寺院に寄寓し、仏教以外の学問を学ぶ者に名づけられたようですが、日本仏教では、仏教を学ぶ者に用いています。

 真言宗の金剛業学生、胎蔵業学生や、海を渡って大陸に学ぶ人を留(る)学生、学んで帰国した人を還学生という具合です。学者も学徒も、もともと同じ意味でした。

 比叡山を開いた伝教大師は、山内で学問をする学生たちの学則ともいえる『山内学生式』を著しています。

 比叡山の衆徒は、学生である大衆と、一山の雑務を担当する堂衆とに分かれていました。親鸞聖人は堂僧であったと伝えられています。常行堂に奉仕しながら、常行三昧を修める不断念仏僧だったようです。

 いずれにしても、学生とは学問に従事する生徒のことですから、しっかり学問してくださいよ。

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過去・現在・未来(かこ・げんざい・みらい)

 過去・現在・未来は、時の流れを表す日常語です。

 仏教ではこれを「三世」といいます。過去は過ぎ去ったもの、現在は生起したもの、未来はいまだ来ないものという意味です。三世は過去・現在・未来のほかにも、前世・現世・後世ともいい、略して「過現未」とか「己今当」ともいいます。

 しかし、これらの言葉には、どこにも「時」という語が見あたらないのです。それは、仏教では、時間というものを実体としてあつかわず、存在するものの変遷としてとらえるからなのです。その過程の上に、仮に三つの区別を立てているにすぎないと説きます。

 仏教は、その三世の中でも、現在を問題にします。それは、過去は現在の原因として、未来は現在の結果としてあるものだから、現在こそがすべてだ、と考えるからです。

 お寺の門の脇で、こんな言葉を見つけました。

 「過去を悔いず、未来を待たず、現在を大切にふみしめよ」
                        (月のしらべ・若藤会)

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呵責(かしゃく)

 「良心の呵責にたえかねて」などと使われるように、呵責は、きびしく責めさいなむことを意味する日常用語として知られています。

 この呵責は仏教語で、仏典にもよく出てきます。修行僧の守るべき規律を記している律蔵の中に、修行僧がそれを破ったときの治罰する方法の1つとして、衆僧の面前で呵責をすることが挙げられています。つまり、お釈迦さまは、その僧を責め叱(しか)りつけ、非難されるのです。

 その意味では、現在使われている呵責の意味と同じだったといえますね。

 お釈迦さまは、おだやかで優しい人だったと伝えられています。しかし、叱るべきときには、きちんと厳しく叱りつけられたのでした。

 最近、少年少女の非行がよく問題にされていますが、このようなお釈迦さまの態度を参考にされてはいかがですか。

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我他彼此(がたぴし)

 今、社会問題となっている「いじめ」や「登校拒否」、さらに最近の異常な犯罪の背景には「ガタピシ」した人間関係が窺われます。

 戸などの建てつけが悪く、騒々しいことも「ガタピシ」といいます。

 この「ガタピシ」を漢字で書くと「我他彼此」で仏教語です。

 自分と他人や、あれとこれというように、物事を対立してとらえることで、これを「我他彼此の見」といいます。

 そこからさまざまな衝突や摩擦が生じて、円滑を欠く状態となるのです。

 仏教は「此あるが故に彼あり」というように、相互関係を重視した教えです。

 現代は、核家族や塾通い、遊び場不足など、子供たちには悪条件の生活環境ですが、なんとかして、豊かな人間関係を育てたいものですね。

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葛藤(かっとう)

 『青少年白書』によると、現代の子どもたちは、淋しい生活を送っていますね。友人関係は狭く浅く、遊びは室内で少人数、塾や習い事に追われ、淋しく忙しい子どもたちです。その上、受験戦争ときては、子どもたちの心の葛藤がつのるばかりです。

 葛藤は「かずら」と「ふじ」です。ともにつる草で、絡まりあったり、まとわりついたりするので、一般には、悶着・相克・抗争の意味に使われ、欲求の心中での対立という心理学の用語ともなりました。

 仏教では、このつる草が樹にまとわりついて、ついには樹を枯死させてしまうように、人が愛欲に堕すると、自滅してしまうと教え、愛欲煩悩を「葛藤」に例えています。(出曜経)

 禅では、文字・言句のみにとらわれることに例えています。そして、このように絡み合っているところを、一挙に断ち切る一句を「葛藤断句」といいます。

 子どもたちに、自然の中で、多くの生き物と共存できる環境の機会を与えたいものですね。

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果報(かほう)

 「果報は寝て待て」という諺(ことわざ)があります。幸運を求めるにはあせってはいけませんよ、待っていれば自然とやって来るものです、という意味なのでしょう。また運が強く、しあわせな人のことを、よく果報者といったりします。

 仏教では因果応報の理を説いています。因果とは原因の「因」と結果の「果」ですから、人の行いや考え方の善悪に対して、必ずそれに応じた結果があることを言っているのです。善因善果、悪因悪果がそれです。ですから、果報とは報いとして受ける結果のことをいいます。

 一般に使われている果報は、しあわせな善い結果の場合だけのようですが、本来の果報には善果も悪果もあります。

 しかも、それはあなたの行動や考え方によると説かれているのですから、寝て待っているだけではどうもいけないようですよ。

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我慢(がまん)

 最近「おしん、家康、隆の里」という言葉がはやっています。みな、テレビに登場した「じっと我慢の子」ばかりです。

 我慢は、辛抱をすること、堪え忍ぶことを指し、よい意味に用いられています。

 この我慢は、仏教語なのですが、あまりよい意味ではないのです。自分の中心に我(が)があるとの考えから、我をたのんで自らを高くし、他をあなどることと説明しています。仏教では、そのようなおごりたかぶる心を7つ挙げ、七慢と称していますが、我慢もその1つです。その後も、我意を張るさま、強情、高慢という具合に、好ましくない意味のものばかりなのです。

 それが、我がつよい、負けん気が強い、がんばる、辛抱するなどと変化したらしいのですが、それにしても、あまり良くない意味の語が、よい意味の語に変化していったのはおもしろいものです。

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伽藍堂(がらんどう)

 広い場所にだれもおらず何もないさまをよく「がらんどう」といいます。

 伽藍は、インドの語「サンガーラーマ」を音訳した僧我藍摩(さんがらんま)の上下が省略された語で、精舎と訳されています。

 いつもは布教伝道の旅に出ている僧たちが、1年に一度、雨季に精舎に集まり、お釈迦さまと共に修行のまとめをしました。(雨安居(うあんご)といいます) 竹林精舎や祇園精舎は有名です。

 奈良七重、七堂伽藍、八重桜と歌われているように、中国や日本では7つの堂を備えたものを一伽藍といったようです。

 「がらんどう」は、伽藍の内部が広々としていたのでしょう。

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瓦(かわら)

 本願寺では、220年ぶりに阿弥陀堂の昭和修復事業が完了し、真新しい瓦葺きの堂宇がそびえています。

 この「瓦」は、インドの語「カパーラ」を音訳したもので、日本へは、飛鳥時代に中国から百済(くだら)を経て、仏教伝来とともに伝えられ、寺院の屋根に用いられました。

 当時の記録によると、「百済から瓦博士が来た」とか、「瓦葺きといえば寺院を意味した」とか伝えています。

 寺院建築用だった「瓦」は、やがて官庁や民間にも普及していったのですが、その製造技術も中国に劣らないものとなりました。

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歓喜(かんき)

 ベートーベンの第九交響曲をご存知でしょう。年末に、よく演奏されますね。終楽章の合唱の歌詞は、シラーの詩「歓喜によせて」です。これを聞かないと、年を越せないファンもおられます。

 普通、「歓喜」はカンキと読み、大変喜ぶことを意味しますが、仏教語としてはカンギと読み、宗教的な満足を、全身心をあげて喜ぶことを意味します。仏典には、仏の教えや仏の名号を聞いて、歓喜踊躍することが、よく説かれています。

 信心歓喜といえば、本願を信じて喜ぶことを表します。空也や一遍などは、その喜びを踊りに表しました。

 菩薩の歓喜地、歓喜光、歓喜会など、歓喜のつく仏教語は数多くあります。

 親鸞聖人は「歓は身をよろこばせ、喜は心をよろこばせることで、歓喜は、往生が確かに得られると信知して、結果を得る前から、あらかじめ喜ぶ心」であると、『一念多念証文』の中で説かれています。

 皆さん、歓喜にあふれた、毎日をお過ごしください。

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寒苦鳥(かんくちょう)

 今回は、想像上の鳥・寒苦鳥のお話を一席。

 「ヒマラヤの中腹に気候の良い地域があった。そこに住む鳥は、花を求めてその香に酔い、木陰に休んで木の実を食べ、一日中遊びにふけった。

 ところが、日が西に沈み、やがて山上から肌をさすような冷たい風が吹いてくると、帰り住む巣を作っていなかったことに気づき、「夜が明けたら巣を造ろう」と、悲しげに鳴いたという。

 しかし、朝がきて明るい日ざしにつつまれるころになると、もう夜の寒さに悲しんだことも忘れて、一日を遊び暮らし、日暮れとともにまた、寒さの中で鳴かねばならなかった」と、『仏教の学習・こころ』に紹介されています。

 夜には「夜が明けたら巣を造ろう」と鳴き、昼には「無常の身だから巣など必要ない」と鳴くこの寒苦鳥を、仏教では、人間のなまけ心、仏道を求めない心に喩えています。

 みなさん、今は暑くても、また寒い冬がやってきますよ。

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観察(かんさつ)

 「自然を観察する」「子どもの行動を観察する」「動物の生態を観察する」「観察力が鋭い」「観察眼を養う」「観察日記をつけよう」んど、観察は、物事をくわしく見て調べること、物事のありのままの現象を、客観的に、注意深く見きわめることを意味する日常語です。

 仏教では「さんざつ」と読み、知恵によって対象を正しく見きわめることを意味します。

 お釈迦さまは、自分を含めた世界を観察思惟し、そのあるべき姿を説かれたといわれています。

 善導大師の『観経疏』には、5種の正行が説かれていますが、その中に「観察正行」があります。一心にもっぱら浄土の阿弥陀仏や、その浄土のありさまに心をそそいで、それを観察し、つねに思うことと説明されています。

 その他にも、観察時衆、観察得失など、観察という語は仏典に多く出てきます。

 観察は知恵によって行うものですから、物事を見るときには、私情や主観をまじえないで、あるがままに、観察してもらいたいものですね。

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堪忍(かんにん)

 徳川家康の『人生訓』の一つに「堪忍は無事長久の基」とあります。「ならぬ堪忍するが堪忍」「堪忍袋の緒が切れた」「堪忍してください」と、堪忍は、堪え忍ぶこと、我慢すること、怒りをこらえて他人の過失を許すことを意味する言葉です。

 私たちの世界は、苦しみや悩みが満ちていて、人は堪え忍んで悪をなし、菩薩は教化のために堪え忍んで苦労しておられるので、現実の世界を、堪え忍ぶ世界という意味の「堪忍世界」とか「堪忍土」といいます。また、堪え忍ぶという意味のインド語「サハー」から娑婆世界とも呼んでいます。

 菩薩の十地(菩薩の修行の位を十の段階に分けたもの)の第一は「堪忍地」で、菩薩がこの位に達すれば苦悩をよく堪え忍ぶといいます。

 このように、堪忍は仏典にしばしば登場します。

 最近は、何事につけても、すぐカッーとなる人が多いようですが、心を大きくもって、グッとこらえましょう。「堪忍は一生の宝」といいますからね。

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観念(かんねん)

 「また遅刻か。キミは時間の観念がないゾ」「もうこの辺で、観念したらどうかネ」

 観念は見解や思い、覚悟やあきらめを意味する日常語です。とくに、西洋哲学がわが国に輸入され、ギリシャ語の「イデア」を「観念」と訳してからは、経済観念、善悪の観念、観念論など、さまざまな分野で用いられるようになりました。

 この観念は仏教語で「観察し思念すること」という意味です。真理や仏の姿などを、こころを集中して思い浮かべて深く考えることです。

 そのことによって、自分を仏に近づけようとする修行が、インドでは古くから行われたといいます。

 阿弥陀仏や極楽浄土の相を観念する観想の念仏に対し、法然上人は「観念の念にもあらず」と述べ「南無阿弥陀仏」と称える称名念仏を説かれました。

 時間の観念のない人は、この情報化社会で取り残されてしまいますよ。

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看病(かんびょう)

 病人を看護することを看病というのは、誰でも知っていますが、これが仏教からきた語であることを知っている人は少なく、むしろ死んでからが僧の仕事だと思っている人さえいます。

 ところが、『大言海』には「僧侶の説法、呪法などして病者を癒すこと」を、看病の意味に挙げています。

 『梵網経』には「看護福田は第一の福田なり」と、看護が仏教の重要な行いであることを説いています。

 仏教の修行者のことを看病者というぐらいです。

 最近「ビハーラ」とか「ホスピス」という語をよく耳にします。それは「病院では見放された治る見込みの少ない人々を、さまざまな苦しみや死の不安から開放するために、一人の病める人間として暖かく看護し、最後の一瞬まで精一杯生きることを援助する、一つの全人的な看取りの運動、施設、心を意味する」と、ビハーラ講座で教えられました。

 宗教者が看護に取り組むのは、そうした意味に基づくようですね。

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甘露(かんろ)

 のどが乾いたとき、冷たいビールや水を一気に飲めば「甘露、甘露」と叫びたくなりますね。

 一般に、おいしい飲物を「甘露」といいますが、「甘露水」意外にも「甘露煮」や「甘露梅」などのように甘い食べ物にも使われる言葉です。

 甘露は、天から与えられる甘い不老不死の霊薬で、中国古来の伝説によると、天子が仁政を行えば、天から降るといわれているものです。

 インドでは「アムリタ」といい、神々が飲む不老不死の霊液で、これを飲むと苦悩が去り、長寿になり、死者をも甦らせるといいます。そこから仏の教え、仏の悟りを表す喩えの語になりました。

 『今昔物語』に「我、甘露の法門を開いて、彼の阿羅邏(あらら)仙を先ず度せんと」とあるのをはじめ、甘露法雨、甘露城、甘露王などの語があります。

 お釈迦さまが誕生のとき、天界の龍王が下界して甘露をそそいだという伝説から、4月8日の潅仏会には、誕生仏に甘茶をかけるようになったということです。

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祇園(ぎおん)

 京都の三大祭の一つ、祇園祭は、華麗な山鉾巡行でにぎわいます。祇園といえば、だらりの帯の舞妓さんを連想したり、『平家物語』の一節を思い浮かべたりする人もいることでしょう。

 インドの舎衛城に1人の富豪がいました。孤独な人を哀れみ施しをしたので、給孤独(きっこどく)長者と呼ばれていました。長者はお釈迦さまに深く帰依し、寺院を寄付したいと探しまわって見つけた土地が、祇陀(ぎだ)太子の土地でした。太子は、土地に金貨を敷きつめたら譲ろうと、冗談で言ったところ、長者はその通り実行し始めたので、太子は驚き長者の熱心さにうたれ、土地を譲り、自らも樹木を寄付して寺院建設に協力しました。この由来から、寺院は両者の名をつけて「祇樹給孤独精舎」−略して祇園精舎といいました。

 京都の祇園は、平安時代に藤原基経が牛頭祠を建て、祇園精舎の故事にちなんで祇園社と名づけたところから始まったのです。

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機嫌(きげん)

 「ごきげんよう」「機嫌をとる」「機嫌をなおす」「ご機嫌うかがい」とか「坊やはご機嫌ななめ」などと、機嫌は気分のよしあしを言う日常用語として、一般によく使われています。

 機嫌は譏嫌と書き、仏教語でした。譏嫌とは、譏は「そしる」、嫌は「きらう」という意味ですから、他人のそしりきらうこと、世の人たちが嫌悪することをいいました。

 仏教の戒律の中に、譏嫌戒といういましめがあります。これは行為それ自体は罪悪ではないが、世の人たちからそしり嫌われないために制定されたそうです。人が不愉快に思うことはしない、という戒律でしょう。

 譏嫌を護るという語句も仏典にあります。他人のそしり嫌うことをしないという意味で、現在用いられている機嫌をとると同じだということです。

 仏教語が一般に使われ気分とか気持ちの意味に変化していきました。

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喫茶(きっさ)

 日本臨済宗を開いた栄西禅師に『喫茶養生記』という著書があります。

 それによると「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。山谷にこれを生ずれば、その地神霊なり。人倫これを採れば、その人長命なり。天竺唐土同じくこれを貴重す。わが朝日本かつて嗜愛す。古今奇特の仙薬なり」といっています。

 これを見ると、茶はもっぱら、養生・除病・長命の薬だったようですね。

 茶そのものは、早くから日本に伝えられていたようですし、喫茶という言葉も仏教独特の言葉ではありませんが、禅師が茶をすすめて、源実朝の熱病を治したことがあってから、喫茶が世に広く行われるようになったようです。

 そういえば、茶の種子の輸入、栽培、茶会などに多くの僧の名前が登場したり、玄恵著の『喫茶往来』、「喫茶去」という公案、「遇茶喫茶、遇飯喫飯」「日常茶飯」などのように、喫茶に関係ある語も多く、喫茶は仏教によって普及されたようです。

 では、この辺でお茶にしましょう。

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擬宝珠(ぎぼし)

 橋のらんかんの、柱の頭部についている、まるい装飾金具をご存知ですか。「ぎぼし」と呼ばれているものです。仏教が伝来して以来、寺院建築によく使われたもので、お寺の須弥壇(しゅみだん)や回廊のらんかんなどでもよく見られるかざりです。

 仏典には宝珠(ほうしゅ)と呼ばれる珠(たま)が登場します。如意宝珠とも呼ばれ、思いのままに、欲しいものを出す珠で、病苦を除き、濁水を澄ませ、禍(わざわい)を断つ力を持っているといわれるものです。

 丸い珠で頭がとんがっており、左右から火焔がもえあがっている形をしています。この宝珠に似せてあるので擬宝珠(ぎぼうしゅ)と呼ばれ、それが「ぎぼし」になりました。

 擬宝珠(ぎぼうしゅ)というユリ科の多年草があります。夏に淡紫色の花を咲かせます。また、ネギの花もこう呼ぶのだそうです。

 あらためて橋の「ぎぼし」をご覧になってはいかがですか。

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脚下照顧(きゃっかしょうこ)

 「脚下照顧」は禅寺でよく見られる語句です。寺の玄関や入り口には、この4文字を木札に大書してあるのを、よく見受けることができます。

 脚下は足もとのこと、照顧はよく照らして顧みることですから、脚下照顧とは「足もとをしっかり見よ」という意味です。履き物のぬぎ方ひとつにも、細かく気をつけて、だらしなく不揃いなぬぎっ放しなどするな、ということです。

 さらに、脚下は単に履き物のことだけではなく、自分の足もと、自分の立っている立脚点、現実的出発点を意味しますので、脚下照顧は、「自分自身をしっかり見よ」ということになります。

 理想のみを追い求めて現実を忘れていないか。理論ばかりに走って実践をおろそかにしていないかと、常に自分を見つめ、反省する心が大切だというのです。

 現代は目まぐるしい時代です。しっかりと対処しないと遅れてしまいます。しかし、そのような現象面だけを追い求めるのではなく、自分の足もとをしっかり見よと教えるのです。

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行儀(ぎょうぎ)

 「この子は行儀がいいね」とか「このごろの若いものは行儀を知らないよ」などと使われる行儀という言葉は、一般に起居動作の作法、たちいふるまいを表す言葉となっているようです。「えらく他人行儀じゃないか」のように、行為そのものを指す場合もあります。

 行儀とは、本来、出家修行者が日常おこなう行(歩く)・住(とどまる)・座(すわる)・臥(寝る)などの行為の規則、礼拝などの仏事のたちいふるまいの方法、つまり[行]事の[儀]礼を表す仏教語でした。

 今ではそれが一般市民の間に取り入れられたようです。

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教授・講師(きょうじゅ・こうし)

 前に「学生」を紹介しましたので、今回は、大学の先生がたの番です。

 仏教では、教授とは、法を[教]え道を[授]けることをいいます。

 仏教の入門式である具足戒を受けるときには、三師七証といって、3人の師匠と7人の証人が必要です。その3人の一人に、教授阿闍梨とか教授師という師匠がいます。これは戒場で受者に行儀や作法を教える役です。

 『五分律』に「具足戒を受くるの時、威儀法を教うる、是を教授阿闍梨と名づく」とあります。

 講師は、僧尼を指導し、仏教を講説する僧です。もとは、国師と呼ばれていました。国ごとに1名ずつ任命され、国分寺でもっぱら経典の講説にたずさわっていました。

 天台宗では論議のとき問者の質問に答える人のことです。

 現在では、教授も講師も学生も、大学の先生と生徒のことを指しますが、本来は、仏教を教え、仏法を講説し、仏法を学問する人なのです。

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行水(ぎょうずい)

 行水というのをご存知ですか。たらいに湯や水をくんで、それを浴び、汗などを流すことをいいます。

 行水でさっぱりした後、ゆかたを着て、縁台で涼むなど、なかなか風情のあるものでした。今では、こんなのどかな風景はほとんど見られなくなりましたから、シャワーを浴びて、ということになりますかね。

 仏教では『長阿含経』というお経の中に「手に自ら斟酌して食訖(じきおわ)りて行水し」とありますから、行水は、食後、鉢や手を洗うことをいったのでした。

 そこから、潔斎のために、清水で身体を洗い身を正すことになり、それが一般にも広がり、今の意味になったようです。

 日本では、入浴はもともと仏教の作法で、僧以外の人々は、最初は海や川で簡単に身体を洗う程度でした。僧が温水により清浄にしていたのが、一般社会にも浸透していったのです。

 今日は久しぶりに行水をしましょうか。やっぱり、シャワーですか。

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苦行(くぎょう)

 「パキスタン・ガンダーラ美術展が、東京・大阪・福岡で開催されました。140点の展示品の中で、何といっても目を引くのは、「釈迦苦行像」です。目は落ちくぼみ、やせおそろえ、あばら骨がむき出しになった上に、血管が浮き出しているという、何とも迫真の姿はガンダーラ美術の至宝ともいわれています。

 お釈迦さまは種々の修行の後、苦行林に入りインド古来の修行である苦行を修められました。心を制御する苦行、呼吸を止める苦行、断食による苦行、減食による苦行を行ったといいます。「過去、現在、未来のどんな修行者も、これよりはげしい苦行を修めたものはなく、また修めるものもないであろう」と、語っておられるほどの壮絶なものでした。そのときの姿を表現したのがこの像です。

 大へん苦労することを、一般に難行苦行といいますが、お釈迦さまのは並大抵の苦労ではなかったのです。

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くしゃみ

 くしゃみは「クシャン」とするからだと思っていましたが、おもしろい話があったので紹介しましょう。

 ある時、お釈迦さまがくしゃみをしました。すると、弟子たちが一斉に「クサンメ」と唱えて、師の健康を願ったということです。何ともほほえましい話が仏典に書かれていました。

 「クサンメ」は、インド語で「長寿」という意味です。インドでは、くしゃみをすると命が縮まるといって、「クサンメ」と唱える風習があったといいますから、これは長寿を祈る呪文だったのかも知れませんね。

 このクサンメは「休息万命」「休息万病」と音写されています。これを早口で何度も言ってごらんなさい。クサメになりませんか。くしゃみはクサメから転訛したものだそうです。

 「一 ほめられ、二 そしられ、三 わらわれ、四 かぜひく」と、古老から教えられました。とにかく、お大事にしてください。

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愚痴(ぐち)

 言っても甲斐のないことを、くどくどと言って歎くことを「愚痴をこぼす」といいます。愚痴とは泣き言のことでしょうか。

 お釈迦さまは「人間が苦悩する原因は、心のなかに宿る煩悩(ぼんのう)にある」と教えられました。貪欲(とんよく)=むさぼり欲しがる心、瞋恚(しんに)=いかり腹立つ心と愚痴とは、108種の煩悩のなかでもとくに強力なものなので、三毒の煩悩といいます。

 『ちかいのうた』の中に、

   「欲(よく)と瞋(いか)りと癡(おろか)さの
    わざわい永遠(とわ)に除(のぞ)かなん」

とあるのがそれです。

 愚痴とは、目さきのものにとらわれて、真理を解する能力のない愚かな心を指しているのです。

 愚痴もほどほどに…。

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供養(くよう)

 戦没者供養塔、遭難者供養塔、殉難者供養塔から、カイコやフグなどの供養塔、さらに針供養、茶筅供養、人形供養など、わが国にはいろいろな供養があります。

 このように、供養は死者などの霊を慰めることの意味で、一般に用いられています。

 「供養」はインドの言葉で「プージャナー」といい「尊敬する」「崇拝する」という意味です。それが仏・法・僧の三宝、つまり仏教教団に対して衣服・食物・薬品・財物などを捧げ、尊敬すべき対象を養うことになりました。

 供養とは進[供]資[養]の意味だというのがそれで、いろいろな種類があります。

 バラモン教が動物の犠牲による儀式であるのに対し、仏教は不殺生の立場から採用したものと言われています。そして、礼拝の対象へ水、華、香、灯火などを供えることとなり、やがて、現在のような意味になりました。

 お彼岸です。大谷本廟も大賑わいです。よく見ると、みな、水、華、香、灯火を手にお墓参りしていますね。

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結界(けっかい)

 昔、商屋では帳場の囲いとして三枚折りの低い格子が立てられていました。これを帳場格子とか結界といいます。

 お寺の本堂で、内陣と外陣、または、内陣の中でも座席を区別するために設けられている木の柵を結界と呼んでいます。

 茶席で、客畳が道具畳と接近している場合、その境界を示すために置く置物、この茶道具を結界といいます。

 高野山などの女人結界も有名です。女性の入山を禁止したもので、刈萱(かるかや)道心と石童丸(いしどうまる)の哀話が思い出されます。

 結界とは、仏道修行の必要上、一定の地域を定め、その境界を制限することです。受戒や布薩など、僧たちが一カ所に集まって行事をなしうるように考えて設けられた摂僧界のほか、摂衣界と摂食界があります。

 それがやがて、僧団の秩序を乱し修行のさまたげとなるものが入ることを許さない境界を意味するようになり、そこから、さまざまな意味に転じたようです。

 関係者以外、立入禁止、ですかな。

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結集(けっしゅう)

 「みんなの力を結集して、この難局に立ちむかおう」とか「メーデーには○○広場に結集を」とか、結集は、労働運動関係をはじめ、一般によく聞かれる言葉です。

 仏教では、結集を「ケツジュウ」と読み、声を合わせて朗誦(じゅ)することを意味します。

 お釈迦さまの死後、弟子たちは、その教えを編集し再確認しようと、お釈迦さまの教えを聞いた500人が集まり、記憶していた教えを持ち寄りました。持ち寄られた教えは、補充したり削除したりして、しだいに整理され、最後に皆で一緒に声を合わせて合誦することによって、一つの経典ができました。結集とはそのような仏典編集会議なのです。

 仏教語「ケツジュウ」が今日の「ケッシュウ」になったのですが、考えてみますと、結集の場合でも、一同が声を合わせて、いわゆるシュプレヒコールをしますものね。

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玄関(げんかん)

 家の正面で入り口を「玄関」と呼んでいます。表入口という意味なのでしょう。みえを張って外観だけを豪勢に見せようとすることを「玄関を張る」といい、面会させないで客を帰らせることを「玄関ばらい」といいます。

 この玄関が仏教語なのです。本来は建物の名前ではなく、[玄]妙な道に入る[関]門という意味で、奥深い教えに入る手始め、いとぐちを指していました。「禅門に入る」などがそれです。

 この仏教語が建物の名前となり、禅寺の客殿に入る入り口を指すようになりました。

 やがて、室町時代から桃山時代にかけて盛んになった書院造りに、その形式がとり入れられましたが、まだ庶民住宅には造ることを許されていませんでした。

 江戸時代になって、民家や一般の建物にも広まり、明治以降は現在のように正面入り口を呼ぶようになりました。

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