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用語紹介(1/5)



愛(あい)

 バレンタインデーに、女性が愛する人にチョコレートを贈るようになったのは、いつからのことなのでしょうか。とにかく、街には愛のチョコレートがあふれています。

 歌謡曲にも愛はよくうたわれています。「愛なくて歌謡曲なし」という人もいるくらいです。

 この愛が仏教語です。仏教では「一切苦悩を説くに愛を根本と為す」と『涅槃経』にあるように、愛は迷いや貧(むさぼ)りの根源となる悪の心の働きをいいます。のどが渇いたときに水を欲しがるような本能的な欲望で、貧り執着する根本的な煩悩を指します。

 愛欲、愛着、渇愛などの熟語は、そのような意味をもっています。

 一方、仏教では、このような煩悩にけがされた染汚(ぜんま)愛ばかりでなく、「和顔愛語」のように、けがれていない愛も説かれています。仏菩薩が衆生を哀憐する法愛がそれなのですが、この場合には、たいてい「慈悲」と呼ばれているようです。

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アイウエオ

 電話番号帳、辞書、名簿。みなアイウエオ順に並んでいます。昔は、順序符号に「いろは」順を使うことが多かったようですが、最近は「アイウエオ」順が普通になりました。

 この「五十音図」が仏教語という訳ではありませんが、『広辞苑』に「国語音に存する縦横相通の原理を悉曇(しったん)の知識によって整理して成ったものか。また、悉曇より出たもの、漢字音の反切のために作られたものなど、その発生については諸説ある」とあります。

 悉曇とはインドの言葉のサンスクリット語(梵語)の文字のことで、仏教経典にも用いられたものです。だから、悉曇学は仏教者の学問でもあります。

 五十音図は梵語の母音の中からアイウエオをとり、それに子音の同じものを同行、韻の同じものを同段として、アカサタナハマヤラワの順で配列していますが、これは梵語の配列とよく似て、悉曇の影響を窺わせます。

 「いろは」といい「アイウエオ」といい、やはり、日本文化の底には仏教が流れていますね。

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挨拶(あいさつ)

 「一言、ご挨拶を申し述べます」−儀式などのときに、よく聞かれる言葉です。挨拶状などという手紙が来たりもします。ちょっとすごんで「挨拶してやるぞ」とか、冷たく「ご挨拶ですね」とか、挨拶は今では日常用語になってしまいました。

 しかし、挨拶という言葉は、もともと仏教語なのです。挨は「押す」こと。拶は「せまる」という意味から、挨拶は、前にあるものを押しのけて進み出ることをいいます。禅家では、「一挨一拶(いちあいいつさつ)」といって、師匠が門下の僧に、または修行僧同士があるいは軽く、あるいは強く、言葉や動作で、その悟りの深浅を試すことがあります。これが挨拶なのです。

 そこから転じて、現在のように、やさしく、応答とか返礼、儀礼や親愛の言葉として使われるようになりました。

 寺子屋ネットをご利用頂く皆様方に、まずは、つつしんでご挨拶申し上げます。

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愛敬(あいきょう)・愛想(あいそ)

 「男は度胸、女は愛敬」とか、「愛敬をふりまく」など、愛敬といえば、にこやかでかわいらしいことや、愛想のよいことを意味する言葉として知られています。

 この愛敬は本来「愛敬」と書き「アイギョウ」と読んで仏教語でした。愛(いつく)しみ敬(うやま)うことを意味したのです。

 仏や菩薩の容貌は穏和で慈悲深く、拝む人たちが愛敬せずにはおられない相を表しておられるので、その相を愛敬相といいます。愛敬は、その愛敬相から来たものなのです。

 また、「愛敬がよい」とか、「愛想が尽きた」などと使われている愛想という語も、本来は「愛想」で、そのもとは同じ愛敬相から出た語のようです。

 同じ愛敬相から、愛敬と愛想が生まれ、そうれが、愛敬と愛想となっていったようですが、いずれも、もとは仏さまのお顔の相だったのですね。

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会(あ)うは別(わか)れ

 「はじめより、あふはわかれと聞きながら、暁知らで、人を恋ひける」
                             (藤原定家)

 古来より、現代の歌謡曲に至るまで、この情念をうたったものは数多くあります。「会うは別れのはじめとは、知らぬ私じゃないけれど」という切ない思いは、すっかり日本人のものになっていますね。

 この「会うは別れのはじめ」というのは、『白氏文集』の「合者離之始」を口語訳したものですが、『法華経』の「愛別離苦、是故会者定離」や、『仏遺教経』の「会う者は必ず離るることあり、憂悩(うのう)を抱くことなかれ」などという、仏教思想をやさしく表現したものです。

 「生者必滅、会者定離」といわれるように、生じたものはかならず滅し、会ったものは定めて離れなければならないという、人生の無常を表しています。

 3月4月は、卒業、入学、入社、転勤など、人の往来の多いシーズンです。人生のはかなさを悲観的にながめるのではなく、だからこそ、出会いを、人間関係を大切にしていきたいものです。

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阿吽(あうん)

 相撲の仕切りは「阿吽の呼吸」を合わせます。吐く息、吸う息を合わせるのです。

 社寺の門前のコマイヌさんや、山門の仁王様は、一方が口を開いて「ア」、他方は口を閉じて「ウン」と、阿吽の姿をしています。

 インドの文字である梵語(ぼんご)では、最初が「ア」と口を開いて出す音声で「阿」と訳され、最後は「フーン」と口を閉じて出す音声で「吽」と訳されています。

 日本のアイウエオで始まる50音図は、この梵語の配列にヒントを得て、それに基づいて整理されたものといわれていますから、同じく「ア」で始まり「ン」で終わっているのです。

 このように、阿吽は、ものの始まりと終わり、出息入息を示しています。

 密教では、阿吽を、根源と帰着、菩提心(ぼだいしん)と涅槃(ねはん)などの象徴としているともいわれているようです。

 みなさん、何事にも、阿吽の呼吸が大切ですよ。

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諦め(あきらめ)

 どうにもならないことをくよくよと考えないで断念することを「あきらめる」といいます。

 お釈迦さまは、悟りを開かれた後、ベナレスのミガダーヤで5人の友人たちに、初めて法を説かれました。初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ばれているのがそれで、その説法の内容が「四諦」の教えでした。

 諦とは「まこと」とか「真理」という意味で、動詞として読むときには「あきらめる」すなわち、「明らかに真実を見る」という意味なのです。

 お釈迦さまはその悟りの内容を、苦諦(くたい)・集諦(じつたい)・滅諦(めつたい)・道諦(どうたい)の四つの真理に分けて教え、それを見ることによって、真理を知ることができると説かれました。

 だから、諦という語は、現在のように消極的な用い方ではなく、真理を悟るという力強い語なのです。

 しかし、その時、自分一人の力ではどうにもならないことを悟るのが、本来の意味なのかも知れませんね。

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悪事千里(あくじせんり)を走(はし)る

 湾岸戦争は、世界中を巻き込んで、一応は終わりましたが、戦後にも困難な問題が山積みしているようです。

 今度の戦争の特徴は、ハイテクの使用とテレビ戦争です。戦争勃発以来、戦争の悲惨な場面が、一々茶の間に写し出されるのです。こんな戦争は今までありませんでした。まさに「悪事千里を走る」です。

 この諺は、悪い行いはすぐ世間に知れ渡る、という意味ですが、戦争という悪事は地球上を駆け回りました。

 『景徳伝燈録』に「好事門を出でず、悪事千里を行く」とあるのが、この諺のもとです。

 好い事はなかなか世に知られないが、悪い事はすぐに広まる、それが世相である。だからこそ、達磨大師は好い事を伝えるために、インドから遠く中国までやって来たのである、というのです。

 仏教は「不殺生戒」の立場から「いのちを大切に」をスローガンにしています。1日も早く、平和という好事が、千里といわず、地球上を駆け回ってほしいものです。

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阿号(あごう)

 能の観阿弥・世阿弥、水墨画・連歌の能阿弥、書院造の相阿弥、作庭の善阿弥、立花の立阿弥、美術品鑑定の千阿弥など、名に阿弥がついています。

 名前の下に「阿弥陀仏」略して「阿弥」「阿」をつけるのを「阿弥陀仏号」略して「阿号」といいます。

 これは、法然上人から念仏の教えを聞いて感銘した俊乗房重源が、みずから南無阿弥陀仏を名としたところから、浄土宗や時宗などでよくつけられ、中世以降は、仏工・画工・能役者など、芸能関係者が好んで用いました。

 昔、筒井順昭が病死したとき、嗣子の順慶がまだ幼かったので、敵から攻められるのをおそれて、遺言により、声が順昭とよく似ていた南都の「木阿弥」を寝所に寝かせ、順昭が病気で寝ているように見せかけました。そして順慶が長ずるに及んで、順昭の喪を発表したと、『天正軍記』は紹介しています。

 順昭の代役を勤めた木阿弥は、もとの市人に帰っていきました。今では諺になっている「元の木阿弥」の一席でした。

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悪口(あっこう)

 「妄語をいい、綺語を好み、悪口して他を罵(ののし)り、両舌して他の親好を破することを、口の四悪業という」と、『十善法語』という仏書に書かれています。

 妄語はうそをつくこと。綺語は真実にそむいて巧みに飾りたてた言葉。悪口は人をあしざまに言うこと。両舌は両方の人に違ったことをいい、両者を離間して争わせることで、二枚舌のことです。この4つは、口でしゃべる悪の行為だといいますから、慎まなければなりませんね。

 悪口は一般に「わるぐち」とか「あっこう」と読みますが、仏教では「あっく」と読みます。悪心をもって人に悪言を加え、相手を悩ませ、傷つけることです。

 現在、日常で使われている「わるぐち」は、仏教の悪口というより、むしろ、人と人との近親性を離すという「かげ口」の意味が強いので、両舌の方でしょうか。

 いずれにせよ、人に不快感を与えるような言葉は慎み、対人関係を大切にしたいものですね。あなたの一言が、相手の人生を変えさせることになるかも知れませんよ。

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あばた

 「あばたもえくぼ」という諺(ことわざ)をご存知ですか。

 愛する者には、あばたさえもえくぼに見えるという、ほほえましい例えです。こわいと恐れている人の目には、枯れ尾花もゆうれいに見えるという、「ゆうれいの正体見たり枯れ尾花」の類です。

 この「あばた」とは、インドの語「アルブダ」の音写で、腫れ物とか水泡という意味で、経典にも出てくる言葉です。

 仏教で説かれる八寒地獄の1つに、阿浮陀(あぶだ)地獄があります。嘘をついたり、悪口を言ったり、聖者を軽蔑する言葉を吐いた者が落ちる地獄です。この地獄に落ちると、極寒にさらされるため、身体中に腫れ物ができ、そのために、大変苦しむといわれています。

 このアルブダ・阿浮陀があばたとなり、天然痘のあとに残る痕跡の意味となりました。

 現代では、幸いなことに、天然痘は種痘のおかげで無くなってきましたが、「あばたもえくぼ」に見える心は、ますます盛んなようですよ。

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阿鼻叫喚(あびきょうかん)

 「幾十万にも及ぶ広島在住の無辜(むこ)の民を、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄に晒(さら)したということであります」。井伏鱒二の『黒い雨』には原爆が投下された情景を、このように描いています。

 「阿鼻叫喚の巷と化す」と表現されるように、阿鼻叫喚は、戦場や大災害の惨状を形容する語句で、地獄絵そのままに、人々が泣き叫び、逃げまどう悲惨な状況を表しています。

 この「阿鼻」も「叫喚」も地獄の名前で、八大地獄の中に入っているものです。

 阿鼻地獄は無間地獄と訳されるように、間断なく苦しみを受ける地獄の中で最も苦しい場所です。叫喚地獄では、熱湯たぎる大釜の中に投げ込まれたり、猛火の鉄室に入れられたりの苦しみを受けます。

 この両地獄ともあまりの苦しみに耐え切れず、泣き叫ぶというところから、前述のように、惨状を形容する言葉となりました。

 元号は「平成」となりました。このような阿鼻叫喚の情景が、世界中から無くなるように、念願したいものですね。

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天邪鬼(あまのじゃく)

 他の人たちが白といえばわざと黒というように、わざわざ他人に逆らう〈つむじ曲がり〉のことを、よく「あまのじゃく」といいます。

 あまのじゃくは、瓜子姫(うりこひめ)の話しなど、日本各地の民間説話に多く登場しています。たいていはずるがしこくて、かわいげがありません。他人の心をよくさぐり、姿や物をまねたり、口まねをしたりして人に逆らいますが、最後には滅ぼされてしまいます。

 仏教では、もともと毘沙門天(びしゃもんてん)が腹部につけている鬼面のことを海若(あまのじゃく)といい、水神と考えられていましたが、後には毘沙門天の足の下に踏みつけられている二鬼を耐薫(あまのじゃく)と呼ぶようになりました。

 あまのじゃくは『日本書紀』に登場する天探女(あまのさぐめ)からはじまったという説もあるようですが、いずれにしてもあまり人に逆らってばかりいると、踏みつけられて、最後には滅びてしまいますよ。

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有り難い(ありがたい)

 「ありがとう」は、一般に感謝やお礼の心を表す日常用語として常識になっています。

 有り難いは、文字通り「有ること難い」「めったに会うことができない」という意味です。そんなに希なことに出会ったのですから、かたじけない、もったいない、恐れ多いという感謝の気持ちを表すことになります。

 三帰依文(さんきえもん)に「人身受け難し、今すでに受く。仏法聞き難し、今すでに聞く」とあるように、人間として生まれることや、仏の教えに遭うことは、なかなか難しく有り難いことなのです。

 どんな時でも、誰に対してでもすなおに「ありがとう」と言えるようになりたいものです。

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行脚(あんぎゃ)

 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」

 『奥の細道』の有名な冒頭の文です。平成元年(1989)は、松尾芭蕉が元禄2年(1689)奥羽北陸を行脚した「奥の細道」の旅から、ちょうど300年に当たり、各地で講演会や記念行事が催されました。

 行脚とは、僧が一定の住所をもたず、師や友を求め、自分の修養や教化のために、処々を遍歴することで、仏道修行のための旅のことをいいます。

 お釈迦さまは弟子たちに「これからは世の人々の利益と幸福を実現するために、国内をくまなく遍歴せよ」と教えました。

 寺院仏教が発展してからは定住化しましたが、中国では禅宗が興隆して、諸国行脚が盛んになったといいます。行脚僧は行く雲や流れる水のように、足にまかせて諸国を遍歴するので、雲水ともいいます。俳人たちの諸国旅行もまた、行脚といいます。

 今では、行楽地は車でいっぱいですが、これを機会に一度、徒歩で旅をしてみませんか。

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安楽(あんらく)

 安楽は、心身に苦痛がなく、この上もなく楽な状態をいう日常用語です。

 休息用のひじかけ椅子を「安楽椅子」といったり、助かる見込みのない病人を、苦痛なく死なせることを「安楽死」といって、社会問題になったりします。

 仏教では『無量寿経』に「その仏の世界を名づけて安楽という」とあるように、安楽は阿弥陀仏の極楽浄土のことをいいます。安楽国、安楽仏土、安楽浄土、または安養浄土など、さまざまな表現がされていますが、みな阿弥陀仏の世界のことです。

 また、禅でも安楽法門というのがあり、身は安らかで心楽しく行える坐禅をいいますから、そこに至るにはなかなかの修行ではないはずです。

 安楽とか極楽というと世間的な快楽が満ちていて、そこで安楽にくらすように思う人がいますが、果たして、そうですかな。

 『浄土和讃』はいいます。

   安楽浄土にいたるひと   五濁悪世にかえりては
   釈迦牟尼仏のごとくにて  利益衆生はきわもなし

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威儀(いぎ)

 平成元年2月24日、昭和天皇の「大喪(たいそう)の礼」が、東京の新宿御苑で行われました。諸外国からの代表をも含め、みんな威儀を正して参列しました。

 「威儀を正す」とは、なり、かたちをととのえ、作法にかなった立居ふるまいをすることをいいます。「居ずまいをただす」とも、「威儀をつくろう」ともいいますね。

 仏教では、行(行くこと)、住(とどまること)、坐(坐すこと)、臥(ふせること)を四威儀といい、それぞれに守るべき戒律が定められています。だから、「威儀」は日常生活での一切の行動を包括しているのです。

 禅宗では「いいぎ」と読み、規律にかなった正しい立居ふるまいをいいます。

 戒律上の細かな作法や規則も威儀といい、小乗には三千威儀、大乗には八万威儀と、戒律の異名にもなっています。また、袈裟の肩上から前後に通じる平絎(ひらぐけ)の紐も威儀と呼んでいます。

 一日一日、昭和も遠くなっていきますね。

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異口同音(いくどうおん)

 「次の時間にテストをします」といえば、教室中が「エエーッ」。初めて聞くような話しでもすれば「ウッソー」の大合唱。女子校では、こんな風景は日常茶飯事です。まさに、異口同音の世界です。

 異口同音とは、多くの人が口をそろえて、同じことを言うこと。多くの人の説が一致することを意味する言葉です。身は異なるから「異口」で、語説は一致するから「同音」です。語る人はそれぞれ異なっても、語る内容は同じというわけで『弥勒成仏経』などの仏典にもよく出てくる言葉です。

 お釈迦さまの説法に際しても、感激のあまり、大衆が一斉に讃歎した情景が、いろいろの仏典に描かれています。

 『今昔物語』には「仏の御名を唱えて利生に預からんと言いて、五百人異口同音を挙げて」とあります。

 現在、異口同音はさまざまな場面で使われていますが、本堂いっぱいに集まった信者たちが、皆、口々にお念仏をとなえるなどすばらしい情景ですね。

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以心伝心(いしんでんしん)

 「以心伝心」という語句は、日常会話の中でも、よく使われますが、もともと、不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)と並んで、禅の主旨をよく表現した有名な仏教語です。

 お釈迦さまの教えは、確かに経典に記されていますが、それだけで、悟りの極意が伝えられるものではなく、お釈迦さまの教えの心髄は、文字や言葉によらないで、心から心へと、じかに伝えられるものであることを意味している語句なのです。

 「心をもって心に伝える」−人間関係も、ここまでくるとりっぱなものなのですが、今では、もっと軽く「2人は何も言わなくても、ツーカーなんだ」という意味に使われているようです。

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意識(いしき)・意地(いじ)

 意識は哲学や心理学の分野だけでなく「異性を意識する」「自意識過剰」「勝ちを意識してかたくなる」など、一般にも用いられている言葉です。

 また、意地も「男の意地」「女の意地」とか「意地が悪い」「意地をはる」など、日常語となっています。

 仏教では、物を見るはたらきの眼識、音を聞く耳識、においを嗅ぐ鼻識、味わう舌識、触れる身識の5つの感覚器官を五識といい、その奥にあって、それらを含めた一切のものを総括的にとらえ、認識し推理し追想する心のはたらきを、第六識とか意識といいます。

 このような意識は、ひとりひとりの人間の全体を支配し、認識作用の根源であり、物事が成立されるところなので意地というのです。心根(こころね)という意味なのでしょう。

 仏教語であった意識や意地という語が、今では学術用語や日常用語として、りっぱに通用している例です。

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韋駄天(いだてん)

 10月10日は〈体育の日〉です。各地で体育祭や運動会が繰り広げられています。

 そのとき、大変足の速い人がいると、よく韋駄天だとか、韋駄天走りなどと呼ぶことがあります。

 韋駄天は、もとはインドの神で、スカンダといい、シヴァ神の子でした。しかし、後に、仏教の守護神となり、増長天の八大将軍の一人に加えられました。

 足の速い悪鬼を追いかけ、奪われた仏舎利を取り戻したという伝説を持っているほど、足の速いことで有名です。

 そうしたことから、現在では、足の速い人を韋駄天と呼ぶようになったのです。

 運動会、がんばってください。

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一期一会(いちごいちえ)

 5月21日は、親鸞聖人のお誕生日で、本願寺では宗祖降誕会の法要が厳修されます。このとき、国宝の飛雲閣でお茶会が催されることは、ご承知の通りです。

 「一期一会」は茶道の言葉です。

 「一期」は人が生まれてから死ぬまでの一生、一生涯。「一会」とは一つの宗教的なつどい。ともに仏教語ですが、「一期一会」という成句は仏典にはありません。しかし、仏教の精神を表しています。

 千利休の弟子の山上宗二という茶人が、『茶湯者覚悟十体』という、茶道の心得を示した書を著しています。

 その中に「そもそも、茶湯の交会は、一期一会といいて、たとえば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかえらざる事を思えば、実に我一世一度の会なり」と記し、一生にたった一度の出会いだから、主人も客も万事に心を配り、実意をもって交わりなさいと諭しています。

 諸行無常の世の中、日常生活でも、一期一会の心をもって、ご縁を大切にしたいものです。

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一大事(いちだいじ)

 「殿、天下の一大事!」などというと、天下のご意見番、大久保彦左衛門でも登場しそうな情景ですね。

 「わが社の一大事」「大事の前の小事」など、日常でも使われる言葉です。

 『法華経』に、「諸仏世尊は、唯一大事の因縁をもっての故に、世に出現したもう」という文があります。お釈迦さまは、ただ一つの偉大な目的と仕事のために、この世に現れたといいます。

 その目的と仕事とは、仏の智恵を、凡夫に教え(開)、示し(示)、理解させ(悟)、その道に入らしめる(入)ことである、と説いています。つまり、仏がこの世に現れたのは、衆生を救済するためだけだというのです。これが一大事です。

 『真宗新辞典』によると、仏の一大事とは「釈迦がこの世に出現された目的は、愚悪の凡夫を救うため、弥陀の本願を説きあらわすこと」であり、衆生の一大事とは「弥陀に救われて浄土に往生すること」と説明しています。

 さて、あなたにとって一大事とは、どんなことでしょう。

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一味(いちみ)

  釈迦の御法は唯一つ  一味の雨にぞ似たりける
  三草二木は品々に   花咲き実なるぞあはれなる

 『梁塵秘抄』の「一味の雨」の詩です。三草二木とは小・中・上薬草と小・大樹で、これらは大小の差はあったも、みな慈雨に潤され育ち、薬用になるのです。

 このように、仏法は貴賎・男女・大小に関わりなく平等無差別であることを「一味」といいます。海水はすべて同一の塩味であるのに喩えたものです。『正信偈』にも「如衆水入海一味」とありますね。

 そこから、一味同心(心を一つにして味方をする)一味徒党(同志の仲間)などの語句が生まれました。しかし、悪党の一味などは穏やかでありませんね。

 『梁塵秘抄』はさらに続けます。

  阿弥陀仏の誓願ぞ   かへすがへすもたのもしき
  一度御名をとなふれば 仏に成るとぞ説いたまふ
  我等は薄地の凡夫なり 善根勤むる道知らず
  一味の雨に潤ひて   などか仏にならざらん

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一蓮托生(いちれんたくしょう)

 テレビなどで、よく悪者が追い込まれ、自分だけが捕らえられそうになると、仲間やまわりの者に「こうなりゃ一蓮托生だ」などと語る場面があります。皆も同罪だ、運命をともにするぞ、という意味でしょう。

 一蓮托生とは、死後、極楽浄土で同じ蓮華の上に生まれることを指しています。同じ信心で結ばれている人たち、夫婦、友人などが、来世に極楽浄土で一緒に暮らそうと願う時、また、この世で結ばれぬ恋人同士が、来世こそ添い遂げようと願う時などに使われる言葉のようです。

 それが、いつしか、善悪に関係なく、運命をともにする意味に用いられるようになりました。

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いろは歌(いろはうた)

 「いろは歌」は、発音の異なる仮名47字を七五調四句の歌にしたものとして有名です。

 この歌は「相対的な世界にこだわって一喜一憂する迷妄の世界を超脱すれば、一切が安楽となる」と説く『涅槃経』の四句の偈(この偈を「諸行無常偈」とも「雪山偈」ともいいます)を和訳したものです。

  諸行無常(諸行は無常なり)    色は匂へど散りゆるを
  是生滅法(これ生滅の法なり)   我が世誰ぞ常ならむ
  生滅滅巳(生滅滅し巳りて)    有為の奥山今日越えて
  寂滅為楽(寂滅を楽と為す)    浅き夢見じ酔ひもせず

 文語体で書かれていますので、若い人には難しく思われるかも知れませんが、この最後に「ん」や「京」を加えて「いろは順」「いろはがるた」「いろは組町火消し」など、字母表や順序を表す符号に用いられたり、手習いの手本とされたり、日本語の歴史の支柱となってきました。

 古くから、弘法大師の作だと伝えられていますが、真偽のほどはわかりません。

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印(いん)

 年度末や年度始めには「ハンコ」を押す機会が多くなりますね。元号が改められた年には「ハンコ」は大活躍をしました。

 印はインド語で「ムドラー」といい、標章を意味する言葉です。

 仏教の教えの旗印、スローガンを「法印」といいます。諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三教説を三法印。これに一切皆苦を加えて四法印といいます。

 仏像を拝むと、左右の手や指で、種々の形をつくっているのに気がつきます。中には、持ち物がある像も見受けられます。仏や菩薩がその悟りや誓願の内容を具体的に表したもので「印相」といいます。手や指で表すのを「手印」といい、密教では特に重んじているようです。「印を結ぶ」という言葉もあります。

 禅宗などでは、弟子の悟りを認めることを「印可」といいます。そこから芸道などで、師が弟子の熟達に対し与える証明のことになりました。

 このように、「印」は大切なしるしです。ハンコを押す時には慎重に−。

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引導(いんどう)

 「引導を渡す」という言葉があります。あきらめ切れないで迷っている人に、最後的な言葉を言い渡して、覚悟をきめさせ、あきらめさせるという意味なのでしょう。

 葬式のとき、死者が迷わぬよう、僧が法語を与えることを、引導といいます。死者を仏界に導くという意味で、禅宗では、この時「カッ」と大声を発するのはよく知られています。

 死者に対する引導の儀式は、浄土真宗では行いませんし、宗派によっても種々に異なっているようです。

 本来、引導とは、誘引開導の意味で、人々を教え導いて、仏の道に引き入れることをいいます。「衆生を引導する」と、お経によく出て来るように、迷っている人々を、仏道にみちびくことなのです。

 その意味では、死んでからではなく、聞法は生きている間にと思うのですが……。

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有為転変(ういてんぺん)

 「有為転変の世の習ひ、今に始めぬ事なれ共、不思議なりし事でもなり」

 『太平記』に出てくる有名な文です。

 有為は「作られたもの」という意味です。さまざまな因と縁との和合によって生じた現象のことですから、有為は絶えず生滅して無常なのです。

 「いろは歌」にある「有為の奥山」というのは、このような無常の世を脱することの難しさを深山に例えています。そして、これを超えた常住不変の絶対的な存在を「有為」といいます。

 転変はうつりかわること、変化することをいいますから、有為転変は、因縁によって生起した一切のものは移り変わっていることで、諸行無常と同じ意味をもつ言葉です。

 日本でも時代の移り変わりを実感する今日このごろですが、世界はそれにもまして激動の時代に入っているようです。

  世の中は何か常なる飛鳥川  昨日の淵そ今日は瀬になる  「古今集」

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浮世(うきよ)

 みなさんは歌麿や北斎・広重などの「浮世絵」や、西鶴の「浮世草紙」をご存知ですか。江戸時代に、当世流行の風俗や世態を題材とした絵画や小説です。浮世とは、当世風とか風流とか好色とかの意味のようです。式亭三馬の滑稽本「浮世床」「浮世風呂」や邦楽の一種「浮世節」など、浮世と名のつくものがいくらでもあります。

 古くは、憂世と書かれていたようで、定めのないはかない世、栄枯盛衰のはげしい無常の世、憂苦に満ちた世という意味で、この俗世間のことでした。浮世の風などはそれを表しています。

 近世になって、はかなく定めがないのだから、深刻に考えないでうきうきと享楽的に生きるという考え方が加わってから、浮世と書かれる方が多くなり、現世、当世の意に用いられるようになりました。

 みなさんにとって、この世は憂世ですか。それとも浮世ですか。

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有頂天(うちょうてん)

 得意の絶頂になっていることを、「有頂天になっている」といいます。喜びに夢中になって、他をかえりみない状態のことをいうのでしょう。

 仏教では、迷いの世界を6つに分けて六道と呼び、その一番高いところが「天」の世界です。この天の世界がいくつかの段階に分かれていて、それぞれに名前がついています。三界二十八天と言うのだそうです。

 その天の世界の中で、頂上に位置する天を、非想非非想処天(ひそうひひそうじょてん)といい、あらゆる存在者にとって最高の境地なのです。だから、この天は、つまり有の頂上にある天という意味で、有頂天と呼ばれています。

 「有頂天に上(のぼ)りつめる」という意味から「有頂天になる」となったそうですが、有の最高の天とはいっても、まだ悟りの世界ではないので、あまり得意になっていると、すべり落ちてしまいますぞ。

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有無(うむ)

 「所詮、有象無象の集まりだよ」などというように、「有象無象」は世の中にいくらでもいる種々雑多な、つまらない人間を意味する語句です。

 「責任の所在がうやむやになる」という「うやむや」は、いいかげんなこと、曖昧なことなどを意味します。また、「有無を言わせない」とは、つべこべ言わせず、いやおうなしに、という意味で一般に使われています。

 仏教では、有象無象は有相無相とも書き、有形無形の一切のもの。森羅万象をいうのです。

 古いインドでは、物質には実体が有るか無いかなど、いろいろな命題をめぐって、有無の論争が展開されていました。つまり、「有耶?無耶?」と問うのです。

 これに対して、お釈迦さまは、有に固執する常見も、無に固執する断見も、ともに偏見だとして、中道に帰すことを説かれました。つまり、「有無を言わせない」教えでした。『正信偈』にも「悉能摧破有無見」とあります。

 仏教の語句から一般の日常語になったのですが、随分、違った意味になるものですね。

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懐兎(えと)

 月にはウサギがいるといいます。そこで今回は『ジャータカ物語』から「月とウサギ」のお話を一席。

 昔、森の中にウサギとサルと山犬とカワウソが仲良く暮らしていた。

 ある日、修行者が托鉢に来て、食物を乞うた。

 カワウソは赤魚、山犬は肉と大トカゲと牛乳、サルはマンゴーの実、それぞれがその日手にいれた食べ物を布施した。しかし、ウサギは施すものを持っていなかった。

 「あなたは薪を集めて火をおこしてください。私はその火の中に飛び込みます。私の体が焼けたら、その肉をたべて、修行に励んでください」

 しかし、薪の火はウサギを焼かなかった。修行者の姿に身を変えて、ウサギの気持ちを試した帝釈天は、この立派な行いが世界中に知れ渡るようにと、山を押し潰して出た汁で、月面にウサギの姿を描いた……という。

 インドの人は、月のことを別名「兎をもてるもの」「懐兎」と読んでいます。

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会釈(えしゃく)

 普通、ちょっと頭をさげて軽くおじぎをすることを「会釈をする」といいます。

 しかし、本当は、もっと深い意味があるのです。仏教の教えは、たいへん広いものなので、その中には、一見矛盾しているように思われる教えがあります。そのときそれらの相違点を掘りさげ、その根本にある、実は矛盾しない真実の意味を明らかにすることを、会釈というのです。

 そこから、あれこれ思い合わせて、納得できるような解釈を加えることや、いろいろな方面に気を配ること、儀礼にかなった対応などを経て、今のような意味になったと考えられています。

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縁起(えんぎ)

 チューリップの花は、その球根から咲きます。球根が原因(因)で花は結果(果)です。

 しかし、球根だけでは花は咲かず、温度・土質・水分・肥料・日光・人間の最新の手入れなど、さまざまな条件(縁)が球根に働いて花は咲くのです。

 このように、すべてのものは、必ずそれを生んだ因と縁とがあり、それを因縁生起=縁起というのです。現実には、因と縁と果とが複雑に関係しあい影響しあって、もちつもたれつの状態をつくっています。『阿含経』に「これある故にかれあり、これ起こる故にかれ起こる、これ無き故にかれ無く、これ滅する故にかれ滅す」とあります。

 日常、よく「縁起が良い・悪い」という言葉を聞きます。吉凶のきざしという意味なのでしょうが、本来は、他の多くのものの力、恵み、お陰を受けて、私たちは生かされているという、仏教の基本的な教えなのです。

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演説(えんぜつ)

 参議院議員の選挙です。今や日本列島は選挙戦の真っ最中で、全国各地では、毎日、数多くの選挙演説が行われています。

 仏教では、教えを演(の)べ説くことを「演説」といいます。ですから、演説はいろいろな仏典に登場する語です。例えば、「世尊、我等を哀愍(あいみん)して演説し給え」(華厳経)、「仏、一音を以て法を演説したもうに」(維摩経)、「世尊、法を演説し」(法華経)、「一切の経典を宣暢(せんちょう)し」(無量寿経)という具合です。

 いずれも、お釈迦さまが真理や道理を、人々に説きあかしているのです。

 そこから、多くの人びとの前で、自分の主義主張や意見を述べることをいうようになったようで、街頭演説、応援演説、演説会場、、演説口調など、すべてこの意味です。

 また、講義し演説することを、講演ともいい、これもまた、日常よく使われる言葉です。

 選挙中の候補者や応援弁士の皆さん、演説とはこんな意味ですので、ぜひ真実を解きあかしてください。

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閻魔(えんま)

 『地獄八景亡者の戯(たわむれ)』という長い落語をご存知でしょうか。地獄という奇抜な設定ながら、現代を風刺した噺です。

 その中での圧巻は閻魔大王が登場する場面で、演者がものすごい形相の閻魔顔になると、拍手が起こります。

 「閻魔」はインド語「ヤマ」の音写語で、もともと、インドの古代神話の神でした。人類最初の死者といわれ、死者の楽園の王でしたが、のちに、死者の魂を死者の国へ連れていく神となり、やがて、死者の裁判をするようになりました。

 地蔵信仰などと交じりながら中国に入ると、さらに道教の俗信仰が加わって、十王の一に数えられ、おなじみの姿になりました。

 閻魔は「閻魔の庁」で「閻魔の卒」を従え、「閻魔帳」(先生も持ってます)を見ながら、浄玻璃の鏡に写し出される死者の生前の罪を裁いています。

 交通地獄、受験地獄に加えて、疑獄事件の多い日本です。閻魔さまもお忙しいことでしょう。くれぐれも閻魔さまに舌を抜かれませんように。

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往生(おうじょう)

 「こんどの事件には往生したよ」、「往生ぎわが悪い」、「立ち往生」と、往生という言葉は、どうしようもなくて困った時や、物事がゆきづまった時など、あまり良い意味には使われていないようです。

 しかし、往生とは、現世(げんぜ)を去って、仏の浄土に生まれることなのです。極楽浄土に往(い)って生まれかわるから往生といいます。ですから、往生成仏・往生即涅槃という語句もあるのです。

 領解文(りょうげもん)に「往生一定(おうじょういちじょう)」とあるのは、極楽に往生するのはまちがいないという意味ですから、本来は、たいへんありがたいことなのです。

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大袈裟(おおげさ)

 「あの人の言うことは、大袈裟(おおげさ)だよ」というように、大袈裟といえば、実際よりもたいへんなように言うさま、誇大とか、おおぎょうを意味する言葉です。

 袈裟は、僧が衣の上につけている法衣のことですから、大袈裟は、文字どおり、大きな袈裟のことです。

 袈裟は、後世、華美の装飾的なものとなり、儀式用に着用されるようになりましたが、僧がそのような大きな袈裟をぎょうぎょうしく掛けている様子から、規範の大きいこと、おおぎょうなことを意味するようになりました。

 また、大きく袈裟がけに斬りおろすことも、大袈裟と呼んでいるようです。

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お陰様(おかげさま)

 「お陰様で」は、感謝の心を表す日常語です。

 「お陰」とは、神仏の助けや加護のことで、そこから、人から受ける恩恵や力添えをいうようになりました。

 王舎城に住んでいたシンガーラカは、亡父の遺言によって、毎朝、東西南北と上下の六方に礼拝をしていましたが、意味は十分理解していませんでした。お釈迦さまは彼に対して、こう教えました。

 「東方を拝むときは、私を生み育ててくださった父母に感謝し、南方を拝むときは、私を導いてくださった師に感謝し、西方は妻や子に、北方は友人に、上方は沙門に、下方は目下のもののご苦労に感謝せよ。それが六方を礼拝する合掌の意味である」                    (六方礼経)

 仏教は、すべてのものは相互に関係しあい、多くのものの力、お陰、恵みを受けて生きていると説きます。だから、当然、これらに感謝しようというのです。

 お陰様で、寺子屋ネットも開局してから9年になり、会員も251名になりました。ありがとうございます。

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