SubMenu

勤式関係年表

宗主年号(西暦)月 日宗派事          項
01
親鸞
建久03(1192)03/浄土法然と弟子達、見仏の招きにより京都八坂引導寺にて日本で初めて「往生礼讃偈」による礼拝儀式を行う。
 以後、浄土系各宗の重要な礼拝形式として広った。その博士と旋律は江戸中期頃までは各宗とも共通していたとみられる。
元仁元(1224)この年真宗親鸞、『顕浄土真実教行証文類』六巻を著す。
親鸞〜初期教団の勤行真宗声明は天台声明のほか、専ら「礼讃」と「法事讃」で、念仏和讃も用いられたと思われる。
 宗祖の師慈円は大原流魚山声明を相承しており宗祖も指南を受けたと考えられる。礼讃念仏の依用は覚如『拾遺古徳伝』に源空の命日に勤められたと見え、既に念仏和讃が依用されていたことは存覚『破邪顕正鈔』に見える。
嘉禎元(1238)この年天台宗快、『魚山目録』を作成。
 湛智の「声明目録」をもとに天台宗大原流声明の記譜上の原則(出音図)を曲別に示した一覧表。宗淵の「六巻帖」にもみえるように大原流声明を読譜する上で不可欠なものとなった。魚山目録は現在は付されてないが真宗の声明本にも付されていた。
宝治02(1248)01/21真宗親鸞、『浄土和讃』『高僧和讃』を著す。
正嘉02(1258)06/28真宗親鸞、『正像末和讃』を著す。
02
如信
文永09(1272)真宗覚信尼、吉水の北の辺に仏閣を建て宗祖の影像を安置。(本願寺の創建)
永仁02(1294)この年真宗覚如、宗祖三十三回忌に際し「報恩講式」を制作。現在、報恩講作法で依用。
 この際、家来のうち下間氏の子一人を派遣し小原声明を熟習させ、覚如、彼を師範とし声明を修練する。
永仁03(1295)10/12真宗覚如、『善信聖人絵』を制作。
03
覚如
覚如宗主の勤行真宗「報恩講式」には三礼・如来唄・六種廻向・伽陀が付随し、天台宗大原流声明の譜で唱えられたと思われる。
正和元(1312)真宗大谷廟堂に「専修寺」の額を掲げる。本願寺が初めて寺号を称した。
   〃真宗延暦寺の抗議により「専修寺」の額を撤去する。
04
善如
正平06(1351)11/28真宗存如署名・加点の入った「浄土三部経」が本願寺に残存する。
延文04(1359)11/真宗存如、善如宗主の請により『嘆徳文』を著す。現在、報恩講作法で依用。
05
綽如
綽如宗主の勤行真宗勤行には専ら「六時礼讃」と「阿弥陀経」が依用された。
 阿弥陀経は嵯峨本といって弥陀経のすり本で、漢音をつけたものであった。
06
巧如
巧如宗主時代の勤行真宗巧如、念仏・和讃系の声明を止め、阿弥陀経と六時礼讃を中心とする声明が復活したといわれる。
応永08(1401)この年真宗この年書写された礼讃本が西本願寺に残存。
 年記をもつ博士付「往生礼讃偈」としては最古。二〇数本を校合、浄土宗黒谷本との同異が記されている。また博士の極めて類似した写本が京都の浄土宗檀王法林寺に蔵される。本願寺派所用の「般舟讃」も偈と念仏を交互に唱え、「蓮門課誦」に「讃念仏」として「法事讃念仏」「帰敬讃念仏」とともに収められたもので、浄土宗増上寺所伝の「称讃偈」とともに「文讃」の系統と考えられる。
   〃この年真宗この年書写された「文讃」と題する声明帖が西本願寺に残存。
 「法事讃」の偈に簡単な譜を付したもので、源空の弟子空阿が、「法事讃」の偈と念仏を交互に唱え「文讃」と称したことが「法然上人行状絵図」四八に見え、西本願寺所蔵の「文讃」もこのように用いられたと思われる。高田派で漢語讃と和讃を合わせて念仏とともに唱える「寄句」も、「文讃」の流れを汲む可能性がある。
この頃浄土浄土宗壇王法林寺所蔵の礼讃本、西本願寺本と譜が同一。
 博士と旋律は江戸中期頃まで各宗とも共通していたとみられる。
永享09(1437)09/25真宗存如、加賀専光寺に奥書のある『三帖和讃』を授く。
 「正像末愚禿述懐讃」と「善光寺讃」の前に「コノ和讃ハヒクベカラズ」「コノ和讃モヒクベカラズ」とあり、以後、これらの和讃に墨譜を附して読まない。
07
存如
享徳元(1452)この年真宗今日の勤行形式に通ずる和讃と念仏による勤行形式が始められる。
08
蓮如
寛政02(1461)03/真宗蓮如、近江国堅田道西に宛て、初めて御文章を下附。「御筆始の御文」
文明の頃真宗蓮如、龍玄を大原魚山へ派遣し和讃の譜を習得させる。
文明05(1473)03/真宗蓮如、正信偈和讃を開版。
 この頃より勤行に正信偈和讃が広く一般門末に普及する。これ以前の勤行は専ら六時礼讃が用いられていた。
明応08(1499)03/25真宗蓮如没。
蓮如晩年か没後早い時期真宗正信偈に「ゼゼ(舌々)」と「ハカセ(墨譜:ボクフ)」の別が生じる。
 この頃より既に、法要の軽重による唱え分けがなされていたと考えられる。
11
顕如
永禄04(1561)03/18本派顕如、宗祖三百回忌の法要に際し、初めて法服(袍裳)、七条袈裟を依用。
 本願寺で礼盤が用いられ、行道・散華の作法が執り行われるようになったのもこの頃からであると推定される。
12
准如
慶長07(1602)02/真宗東西本願寺の分立。
江戸初期本派 正信偈の譜、区切(くぎり)・句下(くさがり)・墨譜真(ぼくふのしん)・墨譜行(ぼくふのぎょう)・墨譜草(ぼくふのそう)・繰引(くりびき)・中拍子(ちゅうびょうし)・舌々真(ぜぜのしん)・舌々行(ぜぜのぎょう)・舌々草(ぜぜのそう)の10種となる。
慶長16(1611)03/17本派宗祖三百五十回忌に際し、本願寺両堂に初めて人天蓋を吊す。
元和04(1618)11/17本派本願寺阿弥陀堂御移徒法要に際し、本尊の上に初めて仏天蓋を吊す。
   〃11/本派本願寺、徳力善雪に六高僧を二幅に描かせ、阿弥陀堂本尊の左右に安置する。
元和09(1623)11/27本派本願寺阿弥陀堂に天蓋を吊る。
寛永02(1625)11/本派本願寺、御正忌報恩講に初めて楽を奏す。(寛永03年という説もあり)
13
良如
寛永13(1636)この年本派本願寺派、御堂落慶法要に天台声明の「四智讃梵語」を採用する。
 以来、諸種の法要に天台声明を用いるようになる。梵語讃もそのまま用いた。このとき完成した御堂が現在に見る本願寺御影堂である。
14
寂如
寛文05(1665)12/天台梶井宮門跡、魚山勝林院寺中に声明伝授に関する掟文が出される。
 第4条に「声明之指南或就法事於他行者 御門跡江可被申上者也雖為自分之用必可被申上事」とある。つまり、声明の指南を他行者(他宗派の僧)に行う時は、門跡の許可を得てからにせよということで、これは当時本願寺声明の制作に力を入れていた勝林院寺中住侶の幸雄に対する一種の牽制とも考えられる。
延宝09(1681)この年浄土浄土宗西山派瑞山(龍空)、『蓮門課誦』を編集する。
 梵網経・六時礼讃・斎仏儀・(四奉請・甲念仏・後唄等)・般若心経等を掲載。墨譜を付す版本としては最初のもの。この延宝九年版本の墨譜は浄土系諸宗に広く流布したと推定される。
天和03(1683)07/17本派本願寺、臨時に請う読経荘厳等の式を定める。
貞享02(1685)この年本派本願寺、正信偈の採用後、次第に用いられなくなっていた「礼讃」を再度用い始める。
 この時、延宝九年(1681)編集された『蓮門課誦』所蔵の「往生礼讃偈」が採用された。「蓮門課誦」は礼讃を中心に六時の課誦を定めるが、その順番は晨朝から後夜の順で、善導の定めた日没から日中の順とは異なる。
   〃この年本派本願寺御影堂において、香炉台の後ろに置いていた開山飯供を初めて壇上に置く。
元禄の頃本派町版の「正信偈和讃」に譜が付く。浄瑠璃の譜に類似していた。
元禄元(1688)11/21本派本願寺に初めて喚鐘が掛けられる。
 喚鐘は六物(仏室・厨子・出仏壇・金張附・梵鐘・喚鐘)の一で、本山の特許を得なければ設置することができなかった。この特許制が解除になったのは明治十一年(1878)二月で、末寺からの願い出に応じて許可されるようになった。しかし、二物(天蓋・礼盤)の設置に関しては一定の堂班資格が必要で、この制限は昭和二十四年(1949)四月の旧堂班制度廃止とともになくなった。
元禄02(1689)この年本派第14代寂如、大原魚山の宝泉院幸雄を迎え、本格的に天台声明を取り入れる。
 幸雄の指導の後も、珍雄・嶺雄・韶雄と魚山の声明家が相次いで来山。日常勤行以外の法要は天台声明を採用した。
   〃この年本派本願寺派、「坂東節」を停め、八句念仏和讃とする。
 この頃までは、本願寺派においても「坂東節」が用いられていた。「愚闇記」に北陸地方の真宗教団において時宗の重要な行儀である踊躍念仏が行われていたことが記されている。六斎念仏に「ばんどう」とよぶ一曲があり、「坂東曲」は時宗の踊躍念仏の変形と考えられる。
元禄05(1692)07/27本派本願寺御影堂の開山像前に初めて金燈篭を掛ける。
 これ以前は、晨朝の後に厨子の扉を開くたびに、残燭を点して厨子の内部を照らしていた。
元禄07(1694)04/30本派本願寺阿弥陀堂の前卓を徹し、常香盤を置く。
 ただし法要時には前卓を出す。これ以前は、前卓に双華の荘厳であった。
   〃08/本派寂如、魚山秀雄に声明集三帖を書写させる。
元禄09(1696)この年本派魚山大僧都法印幸雄、本願寺派の声明本を製作。その内容は次の通り。
 乾巻 … 四智讃・著座讃・三経伽陀・式文伽陀・回向・対馬三礼・六種廻向・散華・文類式間和讃・讃仏偈・仏讃。
 坤巻 … 四智讃律・三礼・散華・十四行偈・阿弥陀合殺・八句念仏・九声念仏・仏讃。
元禄12(1699)11/本派本願寺阿弥陀堂の礼盤向卓に初めて立経台を置く。
元禄15(1702)09/26本派寂如、初めて「龍谷山」の三字を書して大谷本廟仏殿に掲ぐ。
 以来これを本廟・本山の山号とし、「大谷会」の名称を「龍谷会」と改称した。
宝永03(1706)08/16本派阿弥陀堂の戸帳を改め、金の華鬘とする。
正徳元(1711)03/18本派宗祖四百五十回忌に際し、御影堂前卓の荘厳を九具足・供物二十五対とする。
 宗祖四百五十回忌(〜二十八日)に際し、御影堂前卓の荘厳を改める。これ以前は、五具足・供物十対であったが、この例を改め、九具足・二十五対とした。九具足は、香炉一、花瓶一対、蝋燭立三対から成る。
17
法如
宝暦04(1754)10/05本派文如、晨朝のお勤めに巡讃を始める。
宝暦06(1756)この年本派本願寺派玄智、初めて刊本の声明集「真宗声明品」を刊行。
 京都醒井通五条上ルの小冶金屋半七の刊行。博士は付されていない。天明五年(1785)と文化六年(1804)に再版された。
 内容 … 三経伽陀・式間伽陀・着座讃・回向伽陀・散華・四智讃・仏讃・九声念仏・八句念仏(甲・乙)・対揚・式間和讃・文類・勧衆讃・法讃・僧讃・心略讃・讃仏講式間伽陀・略回向。
宝暦11(1761)03/18本派宗祖五百回大遠忌に際し、初めて戸帳が用いられる。
 『本願寺通記』に、「宗祖五百回忌に際して、皇太后藤原氏舎子が祖龕(厨子)の戸帳を施した」とある。なお、大谷派では戸帳・懈慢・揚巻等はすべて用いない。
   〃 本派本願寺派の声明、真宗所依の経論の詞章に天台声明の譜を添えるようになる。
 以前は、仏讃・四智讃・法讃等の天台声明をそのまま用いていたが、新たに諸智讃・五眼讃等を製して真宗の法用が備わった。また従来日中の一座毎に『三部経』を読誦していたが、一座毎に一巻となった。また旧例では晨朝に早引讃・前夕読経していたが、晨経夕讃となった。
   〃 本派西本願寺に「如法念仏」広空書写本が伝えられ、以後多くの法要で用いられるようになる。
 「如法念仏」は、善導の「法事讃」の偈に旋律を付したもので、鎌倉時代から用いられ、旋律は四度旋法に天台宗大原流声明の譜を付したものと思われる。現行の浄土法事讃作法はその略用。
明和元(1764)12/大派慧琳、大派儀式故実を記した『真宗帯佩記』を著す。
明和年間(1764〜72)本派本願寺阿弥陀堂の蝋燭立てを平常も出しておくこととなる。
 これ以前は、蝋燭立ては灯す時だけ正中から前の上卓に出していた。
明和08(1771)09/26本派本願寺阿弥陀堂の本尊前に一対の金灯籠を初めて掛ける。
   〃12/24本派本願寺両堂における「小経」「正信偈」の舌々を廃止する。
安永年間(1772〜81)本派玄智、「大谷往生礼讃偈」を編集。
 善導の本義に帰るべく、日没から日中の順に改め、晨朝に含められていた「広懺悔」を別出し、「法事讃」「般舟讃」「帰敬讃念仏」を付録とした。しかし本派では、この玄智本は永く用いられず、昭和の声明改革の時に玄智本の「礼讃」を採用した。
安永元(1772)この年本派阿弥陀堂晨朝の漢音小経の舌々を止め九声念仏とする。
天明02(1782)01/本派玄智、「真宗声明品」の続編として声明集「大谷梵唄品彙」を編纂・刊行。
 内題は「声明後集梵唄品彙」とあり、宝暦六年(1756)開版の「真宗声明品」の続編として編纂。
安永04(1775)この年本派浄土真宗の名を冠した最初の礼讃本『浄土真宗礼讃偈』を刊行。
 永田調兵衛刊。博士は、延宝09年(1681)に浄土宗西山深草派で編纂された「蓮門課誦」を継承する。
天明05(1785)この年本派本願寺派、声明集「大谷梵唄品彙」を再版。
寛政元(1789)本派本願寺派御堂衆知影、大原魚山理覚院恵観に入門し天台声明を極め、『魚山声明相承血脈譜』に名を連ねる。
 智影は京都光隆寺の僧(1761〜1825)。京都に出で西光寺賢従に就て梵唄を学び、二十七歳にして魚山に入り、理覚院知観僧正に師事する。文化年間に宗祖五五〇回忌大法会が各所で行われし際、本山内において声明の興起に力を注ぐ。本如上人の命を奉じて本願寺蔵の声明帖の書写にも努め、仏光寺や浄土宗増上寺の依頼で作譜も行った。
19
本如
文化年間本派真宗誠照寺派、役僧を大原に派遣し讃を習得させる。
文化06(1804)この年本派本願寺派、声明集「真宗声明品」を再版。
文化08(1811)03/18高派真宗高田派、宗祖五百五十回忌法会に際し、天台声明の「四智讃」「八句念仏」を用いる。
文化11(1814)05/本派本如、御堂衆知影に声明帖の書写を命じる。
 知影は約一年間これに専念し、本山の年中行事に依用する声明『唄策』十数巻を献上。『唄策』とは『元亨釈書』に見える声明帖のことであると記されている。
20
広如
天保09(1838)この年本派「正信偈和讃」勤行本の本願寺派蔵版本に譜が付く。
安政04(1857)この年本派本願寺派、初めての蔵版本の「声明品集」四巻(安政本)を出版。天台系声明二〇〇余曲を収める。
万延元(1860)この年本派魚山園部覚秀、翌年勤修される親鸞聖人六百回大遠忌報恩講次第を草案する。
江戸末期〜明治初期本派本願寺派の正信偈唱読法、真譜(しんぷ)・墨譜(ぼくふ)・舌々行(ぜぜぎょう)・中拍子(ちゅうびょうし)・草譜(そうふ)の五種となる。
 中拍子が最も広く用いられ、これを略した草譜は簡略に勤行を修する際に用いられた。真譜・墨譜・舌々は本山・別院などの重い儀式に用いられたもので、一般寺院で唱えられることは極めて希であった。ただし舌々の正信偈は葬儀にて用いられた。和讃本は備忘のために置かれていたので読唱に際しては戴かないのを古格とするが、中古よりこれを戴くようになる。
21
明如
明治06(1873)06/01本派太陰太陽暦の廃止と太陽暦使用に伴い、法要の厳修期日を改める。
明治09(1876)09/23興派興正派、本願寺派より別派独立する。
明治11(1878)03/09本派末寺の後門設置を許可する。
   〃この年本派明如、侍僧和田了因らを大原魚山に派遣し園部覚秀阿闍梨について声明を学ばせる。
 園部覚秀は明治三年に宝泉院住職を辞し、死去するまで西本願寺において声明・法式の指導と整備に携わった。師の書写した多数の声明帖は「龍谷唄策」の原本となった。
明治11(1878)02/本派六物の特許制が解除になる。
 六物(仏室・厨子・出仏壇・金張附・梵鐘・喚鐘)が、末寺からの願い出によって許可されるようになった。しかし、二物(天蓋・礼盤)の設置に関しては、昭和24年(1949)4月まで一定の堂班資格が必要であった。
明治14(1881)この年本派明如、魚山声明の教場を奉仕局内へ移転し梵唄練習所とする。
 阿弥陀堂北側の旧学林の建物を永春館跡(現龍大図書館の敷地)に移築することとし、その竣工までは大谷本廟の茶所に仮設。当時の課目は研究・梵唄・勤行・作法。
明治21(1888)03/29本派本願寺派、園部覚秀の書写した声明帖を「龍谷唄策」二巻として発行。
 明治一一年(一八七八)から五年間、西本願寺と同派の声明家に声明の指導にあたった天台宗大原流の声明家園部覚秀が書写した声明を、覚秀の没後、弟子の桃園専求の墨譜を付して出版したもの。一座の法要を一作法としてまとめらた。しかし地方では専ら従来通りの古本が用いられた。興正派・誠照寺派では覚秀本以前の声明帖を現在でも用いている。
 明治二一年(1888)永田長左衛門刊。乾坤二巻。袋綴。乾巻一二九丁、坤巻一二六丁。
 乾巻 … 修正会・妙相讃嘆会・四箇法用・大師影供・報恩講(式)・読経開闢音用・読経中間音用・読経結願音用・太子講(式)・知恩講(式)・光明唱礼・三宝唱礼。
 坤巻 … 讃仏会・重誓偈・願生偈・帰三宝偈・浄土三昧法・十二光礼・入出二門偈・除夜会・如法念仏・五会念仏略法事讃。
明治24(1900)この年本派「浄土礼讃儀」を刊行。顕如上人三百回忌法要に依用される。
 「浄土礼讃儀」は沢円諦編。その他、四箇法要・大師影供作法・報恩講作法・読経作法・讃仏三昧作法の五種が印行された。
   〃この頃本派書房より多くの本願寺派作法本が開版頒布される。
 阿弥陀懺法・例時作法・願生偈修正大導師作法・光明唱礼・十二光礼・帰三宝偈・重誓偈・五会念仏作法・妙相讃歎・除夜作法など。
22
鏡如
明治39(1907)〜翌年本派鏡如、大遠忌を前に声明の改革を行う。
『仏教大辞彙』の編纂や声明本『唄策』の改訂を指示。『唄策』は『梵唄集』として明治43年(1910)1月25日に興教書院より発行された。
明治41(1908)11/本派鏡如、法衣の大改革を断行する。「服装規定」を定める。
 それまでの袍裳・鈍色・直綴・阪常衣を廃し、素絹の色衣・黒衣の二種のみとし、七条袈裟着用に際しては、衣の上に僧綱板を着用することとした。袴も表袴・指貫などを廃して切袴一種とし、桧扇を廃して中啓のみを残した。また、内陣での草鞋の使用も廃された。そして畳袈裟は本山役員と特許された者に限り、一般には輪袈裟の使用が明示され、本山役員・布教使と特許された者には、略服(黒衣・輪袈裟または畳袈裟、袴の場合には布袍)の着用が認められた。
明治42(1909)この年本派魚山声明家静洞、真宗高田派の『声明集』を編集する。
明治43(1910)01/25本派沢円諦、本願寺派の声明集『梵唄集』三冊帙入を興教書院より出版する。
 「龍谷唄策」を簡略化し、無量寿経作法・阿弥陀懺法・例時作法・二門偈作法・五会念仏・大師影供作法の六種を宗定とした。ついで覚秀の弟子沢円諦が宗定の作法を上・中巻に、自身が習得した声明作法を下巻に収めて三冊としたのが「梵唄集」である。以後、本派では宗定声明集より本書を広く用いるようになった。
 明治三四年(1910)刊、沢円諦編。綴葉本、三冊。
 上巻 … 無量寿経作法・阿弥陀懺法・例時作法。
 中巻 … 入出二門偈作法・五会念仏略法事讃・大師影供作法。
 下巻 … 唄・散華(律旋法)および顕教・密教用の二種の対揚。
   〃11/01本派柱本瑞雲、帙入三巻の本願寺派梵唄集を顕道書院から刊行する。
 『梵唄集』と品目はほぼ同じであるが、式間和讃が付加されている。
   〃11/01本派従来の「往生礼讃」「観音小経」「正信偈(中拍子・草譜)」が顕道書院から発行される。
大正05(1916)08/22本派一般門信徒の仏壇に宗祖御影を安置することが許される。
大正11(1922)03/21本派本願寺に勤式練習所を設置する。
大正12(1923)04/09真宗真宗各派協和会募集の「真宗宗歌」が発表される。
大正14(1925)08/03本派真宗各派協和会と協調し、仏式結婚例を制定。また産児参詣の取扱を定める。
大正15(1926)この年 内務省、門跡寺院の菊紋章の使用を禁止する。
 (亀山本徳寺では)菊紋にテープを貼るなどして御影にいたるまで修正が施こされた。
23
勝如
昭和06〜08(1931〜33)本派声明の大改革を行う。天台系声明のみならず正信偈和讃にも及ぶ。
 声明は、委員長武田瑞忍をはじめ、三谷教応・内田晄融・近藤亮成・滝川寛了・松下観雅・海原真隆・伊藤義賢・小野経龍・花山秀真・緇川●城・阿部珀琳・九条賢誠・木村●三郎・野村成仁等の委員により五年にわたり調査研究が重ねられ、昭和八年四月一日に奉仕局より新しい蔵版本が発行された。新旧の声明集は次の通りである。

  旧声明集    新声明集(上巻)
 無量寿経作法  →無量寿経作法
 阿弥陀懺法   →観無量寿経作法
 例時作法    →阿弥陀経作法
          広文類作法
 大師影供作法  →大師影供作法
 入出二門偈作法 →二門偈作法
 浄土三昧法   →讃弥陀偈作法
 如法念仏作法  →浄土法事讃作法
 五会念仏略法事讃→五会念仏作法
          十二礼作法

  旧声明集    新声明集(下巻)
          円光大師会作法
          上宮太子会作法
          奉讃早引作法
          (漢音)阿弥陀経
          読経作法
 讃仏会     →讃仏偈作法
 重誓偈     →重誓偈作法
 読経開闢作法
 読経中間作法
 読経結願作法

  旧声明集     本山本(上巻)
          修正会作法
          報恩講作法第一種
          報恩講作法第二種
          無量寿会作法
          讃仏講式作法

  旧声明集     本山本(下巻)
 読経一座作法  →読経一座作法

 ※正信偈和讃は、昭和六年に真譜・行譜・草譜の三種類に改められた。正信偈は「荘厳讃」、念仏和讃は「中夜礼讃」の 譜に依拠する。(興正派の長尾猛が添譜した曲を本願寺が譲り受けた?)
 ※往生礼讃偈は、永く依用されていなかった玄智本が採用され、日没から日中の順となり、般舟讃が加えられた。

昭和23(1948)04/10本派蓮如上人四百五十回遠忌法要記念事業として「意訳聖典」を発行する。
 龍大の編纂委員会が、正信偈・重誓偈・讃仏偈・十二礼を意訳した「しんじんのうた」「ちかいのうた」「さんだんのうた」「らいはいのうた」を作詞、天台声明の切音「五念門」の譜をつけ「意訳聖典」として刊行。
   〃 本派勤式指導所より「新制勤行聖典」が発行される。
 それまで在家の仏事は三部経全巻を読唱していたが、「新制勤行聖典」の依用により時間が短縮されるようになった。
昭和24(1949)04/本派二物の堂班資格による特許制が解除になる。
 二物(天蓋・礼盤)の設置は特許制で、一定の堂班資格が必要であったが、旧堂班制廃止とともになくなった。
昭和28(1949)10/本派勤式指導所、主な声明の大部分を収めた『龍谷勤行要集』を発行する。
 A6版。洋綴386頁。声明と作法を一書にまとめた最初の試みで、練習用としてしての勤行本で、以後各派で同類の書が出版されるようになった。
昭和33(1958)この年本派宗祖大遠忌本廟御予修法要に際し、奉讃大師作法第二種が制定される。
昭和34(1959)09/01本派経谷芳隆、永田文昌堂より『漢音小経・早引和讃』を刊行。
昭和36(1961)この年本派宗祖七百回大遠忌に際し、奉讃大師作法第一種が制定される。本山恒例には用いず。
昭和44(1969)この年本派無量寿堂慶讃法要に際し、正信念仏偈作法第一種が制定される。
昭和46(1971)05/21本派宗祖御生誕八百年・立教開宗七百五十年法要に際し、正信念仏偈作法第二種(末寺用)が制定・刊行される。
   〃10/本派宗祖御生誕八百年・立教開宗七百五十年法要に際し、葬場勤行が制定される。
 昭和48年03月31日には「葬場勤行集」が出版され、門末全般に用いられた。
昭和48(1973)この年真宗宗祖御生誕八百年・立教開宗七百五十年法要に際し、「しんじんのうた」を改譜、各派共通の勤行となる。
24
即如
昭和61(1986)この年本派枕経・還骨勤行の和讃は日常勤行の譜とし、葬場勤行のみ添引和讃を用いるよう改正。



SubMenu