楽曲解説(高麗楽の部・高麗壱越調)


延喜楽(えんぎらく)=花栄楽

 高麗楽、壱越調、中曲、四拍子、拍子十一、新楽。舞あり(舞人4人)。
 醍醐天皇の延喜8年(908)に藤原忠房が作曲し、敦実親王が舞を作り、そのときの年号をとって曲名とした。また一説には、笛師の建部逆麿が作曲したともいう。「万歳楽」と組んで、めでたいときに必ず舞われた。襲装束を着用し、右肩をぬぐ。高麗壱越調音取に続いて当曲で舞う。番舞は「万歳楽」。

胡蝶(こちょう)=胡蝶楽、蝶

 高麗楽、壱越調、小曲、四拍子、拍子十六、新楽。舞あり(舞人4人、童舞)。
 平安時代、醍醐天皇の延喜8年(908)あるいは延喜6年(906)8月ともいうが、宇多上皇が子供の相撲を見物したとき,山城守の藤原忠房(楽人)がこの曲を作曲、敦実親王(宇多天皇の子、琵琶を弾き、雅楽に造詣が深い)が舞をつけたという。この2人は他に「延喜楽」も作舞したという。4人の子供が山吹の花をつけた天冠をかぶり、胡蝶用の別装束(蝶の紋のついた袴と袍)を身にまとい、背中に蝶の羽をかたどったものを背負い、右手に山吹の花を持って舞う。かわいらしい舞姿の曲。仏教の法会などで、「迦陵頻」と2曲並んで舞われることも多い。次第は、高麗小乱声、高麗乱声(舞人登場、出手)、小音取(高麗笛と篳篥の音頭による)、当曲(四拍子、拍子16)。当曲を奏している間に舞い終わり、舞人は退場する。蝶が飛びかう様を描くように手を振りながら舞台に輪を作り、くるくる回る。番舞は「迦陵頻」。

八仙(はっせん)=崑崙八仙(くろはせ)、鶴舞

 高麗楽、壱越調、小曲、破 四拍子、拍子十三。急 唐拍子、拍子十四、新楽。舞あり(舞人4人、文舞)。
 渤海舞であったが高麗楽に編入された。別名を「鶴舞」というように、鶴の一群が大空に飛びかう姿を舞にしたというが、由来は不明。冠鶴をかたどった暗緑色の面をつける。短いくちばしの先には金色の木彫の鈴が垂れており、舞につれて動くと鳴き声をあらわすという。別甲をかぶり、紺地に五彩の鯉を刺繍し絹糸の網でおおった短い袍を着た別装束で舞う。次第は、高麗小乱声、高麗乱声(舞人登場)、小音取、破、急。破と急が当曲舞。急を奏するうちに舞人は退場する。番舞は「北庭楽」。

仁和楽(にんならく)

 高麗楽、壱越調、小曲、四拍子、拍子十、新楽。舞あり(舞人4人)。
 光孝天皇(884〜886)の勅により百済貞雄が高麗楽の形式によって作り、年号をとって曲名とした。初めて高麗楽の形式によって、わが国で作られた曲である。襲装束の右肩をぬいで舞う場合と、蛮絵装束を着て舞うことがある。意調子、当曲と奏する。番舞は「承和楽」。

胡徳楽(ことくらく)=遍鼻胡徳楽、胡章楽

 高麗楽、壱越調、小曲、四拍子、拍子八、新楽。舞あり(舞人6人)。
 常世乙魚が仁明天皇(在位833〜850)の代に改作したという。舞人6人のうち4人は酒に酔って赤い顔をした面をつけている。うち3人は長い鼻が動くが、1人だけは酒が飲み足りないのか動かない。奈良春日大社、伊勢神宮(春日大社のものを複製)所蔵の面は4面とも容貌が違うが、宮内庁楽部のものはみな同じである。勧盃という主人役の1人は、唐冠に蔵面をつけ、襲装束を着て笏を持ち、4人の舞人に酒をすすめ、その従者である瓶子取(へいしとり)は、「案摩二舞」の笑面をつけて酌をする。瓶子取は独酌で酒をしたたか飲み、千鳥足で舞台を退出する。舞楽というよりは伎楽に近い。4人の舞人と瓶子取も襲装束を着るが袍はつけない。曲は高麗笛と篳篥の音頭による意調子に続いて、当曲を奏する。舞人は、一臈、二臈、勧盃、瓶子取、三臈、四臈の順に舞台に上がる。昭和42年(1967)3月に国立劇場主催の雅楽鑑賞会で明治初年以来はじめて公演された。番舞は「太平楽」。

狛桙、狛鉾(こまぼこ)=花釣楽、棹持舞

 高麗楽、壱越調、中曲、四拍子、拍子十八、新楽。舞あり(舞人4人、文舞)。
 朝鮮の貢ぎ物を運ぶ舟が五色に彩られた棹をあやつって港に入る様子を舞にしたものという。舞人は、 近衛役人の乗馬の装束であった錦のへりのついた裲襠装束に巻纓(けんえい)・老懸(おいかけ)をつけた末額冠(まつこうのかんむり)を身につけて4人の舞人が五色にいろどられた棹を持って舞う。舞の途中で,棹をあやつって船をこぐ振りがある。次第は、意調子、当曲(四拍子)。当曲で舞人が登場し、舞を舞い、当曲のうちに退場する。番舞は「打球楽」。

敷手、志岐伝、志岐手(しきて)=重来舞

 高麗楽、壱越調、中曲、四拍子、拍子十二、新楽。舞あり(舞人4人)。
 渤海楽であったが高麗楽に編入された。渤海国から平安時代に貢ぎ物を奉る船が来たが、これが重ねて来るようにと風俗舞を作って奉ったのが、この曲であるという。天皇の冠礼に「裹頭楽」と組み合わせて舞ったという。舞人は、老懸(おいかけ)をつけた巻纓(けんえい)の冠をかぶり、右肩をぬいだ蛮絵装束を着る。意調子ののち当曲で出手を舞い、さらに当曲で舞う。番舞は「裹頭楽」または「輪台」。

貴徳、帰徳(きとく)=貴徳侯、帰徳隻

 高麗楽、壱越調、破、四拍子、拍子十。急、唐拍子、拍子二十、中曲、新楽。舞あり(舞人1人、武舞あるいは走舞)。
 黒竜江の沿岸にある粛慎国の帰徳侯の舞であるという。中国漢の宣帝の神爵年間(B.C61〜58)に匈奴の日逐王が漢に降伏して貴徳侯になった(別資料には、漢を封じた匈奴の王が凱旋して帰徳侯になった)という故事によっている。毛べりの裲襠装束に竜甲(たつかぶと)、威厳のある面をつけ、太刀と鉾を持って舞う。面には鯉口と人面の二種があり、貴徳鯉口の面をつけたときは「鯉口吐気、嘯万歳政、天下太平、世和世理」の鎮詞を唱えるというが、今は唱えない。ときとして、番子(ばんこ)という従者が2人、鉾を持って舞台の下で舞人に受け渡しをすることもあるが、いま宮内庁楽部ではこの番子の作法は用いていない。次第は、高麗小乱声、高麗乱声(登場、出手)、小音取、破(四拍子)、急(唐拍子)。破と急が当曲舞。急の章のうちに舞人は退場する。童舞としても舞われる。番舞は「散手」。

納曽利、納蘇利(なそり)=双竜舞(そうりゅうのまい)、落蹲(らくそん)

 高麗楽、壱越調、小曲、破、楊拍子、拍子十二。急、唐拍子、拍子十二、新楽。舞あり(舞人2人または1人、走物)。
 1人で舞うこともあるが、その時は一般に「落蹲(らくそん)」と呼ぶ。しかし奈良楽人の間では、一人舞を「納曽利」、二人舞を「落蹲」といっている。また天王寺楽人の間では、舞のなかばに跪く手があるので「落蹲」というと伝えられている。舞人は、この曲用の別装束、毛べりの裲襠装束(緑系)に身をつつみ、銀色の目と牙をもつ青色の面をつけて、銀色の桴(ばち)を右手に舞う。2匹の竜(雌雄の竜ともいう)がたわむれる様子を舞にしたものというが、他の高麗楽の多くと同様にその伝来については不明。平安時代には競馬や相撲の節会で右方が勝つとこの舞が必ず舞われた(左方が勝つと「蘭陵王」が舞われた)。「納曾利」は右方の走舞の代表とされる。童舞として舞うこともあり、童舞の時は、面をつけずに頭に天冠を用いる。2人の舞人が対角線上で飛びはねたり、背中合せに近寄ったり、背中合せのまま大きく輪をつくって舞うなど、二人舞独特の動きがある。次第は、高麗小乱声、破(揚拍子、登場および当曲舞)、急(唐拍子、当曲舞および退場)。番舞は「蘭陵王」。

新鳥蘇(しんとりそ)=納序曲

 高麗楽、壱越調、大曲、新楽。舞あり(舞人6人または4人、文舞)。
 唐楽の四大曲(皇ジョウ・春鴬囀・蘇合香・万秋楽)に対する高麗楽の四大曲(新鳥蘇・古鳥蘇・進走禿・退走禿)の一。「納序曲」ともいわれるのは、高麗笛と篳篥の奏する「新鳥蘇」にだけ用いる前奏「納序」があるため。嵯峨天皇(在位809〜823)の代に、高麗の笛師下春が日本に伝えたといわれている。右方襲装束(常装束)の袍(ほう)を両肩ともぬぎ、半臂(はんぴ)を見せ(代用として前掛と裾を着ることもある)、柔和な表情の人面をつけ、この舞にだけ用いる特殊な冑(かぶと)をかぶり、太刀を腰に、笏を手にもって舞う。次第は納序(無拍節、篳篥と高麗笛と三ノ鼓)、古弾(無拍節、高麗笛の独奏)、当曲(四拍子、舞人の登場、当曲舞、後参の舞)。退場のときは奏楽なし。当曲が演奏されはじめてから舞人が登場、6人(あるいは4人)の舞人のうち下位の4人(4人舞では2人)は舞い終わると楽屋に戻り、そのうち2人は後参桴を舞台上の2人に渡して退き、舞台上の2人は後参桴をもって後参の舞を舞う。番舞は「皇帝」であったが、今は「蘇合香」。

古鳥蘇(ことりそ)=高麗調子曲

 高麗楽、壱越調、大曲、四拍子、拍子十四、新楽。舞あり(舞人4人または6人、文舞)。
 唐楽の四大曲(皇ジョウ・春鴬囀・蘇合香・万秋楽)に対する高麗楽の四大曲(新鳥蘇・古鳥蘇・進走禿・退走禿)の一。嵯峨天皇の代(809〜823)に、高麗の笛師であった下春(げしゅん)が日本に伝えたものという。舞人は、巻纓(けんえい)に老懸(おいかけ)の冠をかぶり、右方襲装束(常装束)を諸肩袒(もろかたぬぎ)にして(あるいは前掛と裾で代用)、太刀を腰に笏を手にもって舞う。次第は、高麗調子(あるいは意調子)、当曲の序吹(無拍節、舞人登場)、当曲(四拍子、当曲舞、後参の舞)、退場(奏楽なし)。後参の舞は高麗楽の大曲4曲にだけあり、下位の舞人2人が降台したあと、楽屋から後参桴を持参し、舞台の上に残っている上位の舞人2人にそれを渡す。後参桴を手にして上位の舞人2人が舞うのでこの名がある。なお,高麗楽の四箇の大曲のうち,面をつけずに、冠をかぶって舞うのは「古鳥蘇」のみである。番舞は「団乱旋(とらでん)」であった(現在は廃曲、廃舞)。

進走禿、進走徳、進宿徳(しんそうとく)=若舞

 高麗楽、壱越調、大曲、四拍子、拍子二十、新楽。舞あり(舞人6人)。
 唐楽の四大曲(皇ジョウ・春鴬囀・蘇合香・万秋楽)に対する高麗楽の四大曲(新鳥蘇・古鳥蘇・進走禿・退走禿)の一。「退走禿」を「老舞」というのに対して「若舞」という。『体源抄』に「前に進み走って左右の方を指し落ち居る手を中古まで舞ったが、近来は失われてしまった。後一条天皇の長元年間(1028〜1036)の臨時の楽まではこの舞の振りがあった」と記されている。舞人は、襲装束の両肩をぬぎ、面をつけ、後参桴を持って舞う。番舞は「蘇合香」。

退走禿、退走徳、退宿徳(たいそうとく)=老舞

 高麗楽、壱越調、大曲、序吹より四拍子、拍子十一、新楽。舞あり(舞人4人)。
 唐楽の四大曲(皇ジョウ・春鴬囀・蘇合香・万秋楽)に対する高麗楽の四大曲(新鳥蘇・古鳥蘇・進走禿・退走禿)の一。舞人は6人であったが、今は4人。「進走禿」を「若舞」というのに対して「老舞」という。『体源抄』に「後に退き走って左右を見上げる振りが中古まであったが、いまはその舞の手はなくなった。この振りで退走禿の名がついたのであろう」と記されている。舞人は、襲装束の両肩をぬぎ、老婆のような面をつけて舞う。意調子(高麗調子)に続いて当曲を奏する。番舞は「春鶯囀」。

皇仁庭、王仁庭(おうにんてい)

 高麗楽、壱越調、中曲、破 四拍子、拍子十、急 唐拍子、拍子十四、新楽。舞あり(舞人4人)。
 応神天皇の16年(286)に百済から帰化した漢の高祖の子孫という王仁から、この曲名がついたともいう。東宮の冠礼に「喜春楽」とこの曲を一番として舞われた。この舞に用いられるいかめしい顔の面は、王仁が仁徳天皇のご即位のとき(313)に、庭上で舞った様子を表したものといわれている。襲装束の右肩をぬぎ、特殊な甲をつける。意調子に続いて破を序吹にし、急で舞う。番舞は「喜春楽」。

綾切、阿夜岐利、阿夜岐理、綾霧、阿也気利、(あやぎり)=大靺鞨、愛嗜女、高麗女、綾箱舞、愛妓女

 高麗楽、壱越調、中曲、四拍子、拍子十三、新楽。舞あり(舞人4人、文舞)。
 もとは渤海楽であったが、高麗楽に編入された。『楽実録』にはこの曲と舞とは絶えてしまったと記されているが、そののちに再興された。かつては女舞であったので、中国東北地方の満州系の女子の容貌の白い面をつけ、右方襲装束(常装束)に特別の鳳凰甲(かぶと)をかぶり、片肩袒(かたかたぬぎ)で舞う。曲の由来については不詳であるが、舞の型が他の曲と異なることや、優しげな女の顔を表した面であること、やわらかな舞姿などから、もともと女舞であったろうとされる。昭和33年(1958)と昭和42年(1967)に宮内庁楽部で公開された。次第は、序吹(無拍節)、楽拍子(四拍子)。舞人は楽拍子の部分に入ってから登場、当曲舞を舞い、この曲の間に退場する。番舞は「壱鼓」または「央宮楽」。

新靺鞨(しんまか)

 高麗楽、壱越調、小曲、唐拍子、拍子十六、新楽。舞あり(舞人4人、文舞)。
 この曲用の別装束を着、唐冠をかぶり、笏を手に下鞘(しもざや)を腰につけて舞う。4人の舞人のうち一臈と二臈は五位の赤い袍(ほう)を、三臈と四臈は緑の袍を着る。太子の冠をかぶり、左腰に旧日本海軍の軍人が下げたような短剣をつる。沓をはく。笏を持って舞うが、舞人が2人ずつ並んで舞台に上がったり、舞台に正座して再拝したり、横向きに臥すなど他の舞に見られない珍しい振りがある。亡命してきたか、あるいは戦いに負けたのか、または貢ぎ物を奉るために来た渤海国(今の中国東北地方、旧満州)の人が、故郷を遠く離れた望郷のありさまを舞にしたという。新靺鞨国より伝わった舞というが、白河天皇の代(1072〜1085)、法勝寺の供養のとき、天皇の命によって藤原俊綱が作ったともいわれている。昭和37年(1962)4月に宮内庁楽部で50年ぶりに再演した。次第は、高麗小乱声、高麗乱声(登場)、小音取、当曲(唐拍子、当曲舞)。当曲のうちに退場。番舞は「採桑老」。

蘇利古(そりこ)=進曽利古、竈祭舞(かまどまつりまい)

 高麗楽、壱越調、中曲、四拍子、新楽。舞あり(舞人4人)。
 大阪四天王寺の聖霊会舞楽では舞人5人(昭和42年)。応神天皇の代(270頃)に、酒を造ることを専門としていた百済人の須須許理(すすこり)が帰化した。朝鮮では酒を造るときに竈と井戸を祭る風習があるので、それに関連したものといわれている。襲装束に老懸(ろうけん)のついた巻纓の冠をかぶり、蔵面をつける。手には長さ50センチほどのまっすぐな白い木の枝の白楚(ずばい)を持って舞う。「蘇利古」の曲はないので、「狛桙」の曲を返付より奏して用いる。番舞は「壱鼓」。

長保楽、長浦楽、長宝楽(ちょうぼらく)=泛野舞

 高麗楽、壱越調、中曲、四拍子、破、拍子八、急、調子九、新楽。舞あり(舞人4人)。
 6人で舞ったこともあるが、今は4人舞。破を「保曽呂久世利(ほそろくせり)」、急を「加利夜須(かりやす)」といい、平調に属す。『楽実録』に、一条天皇の長保年間(999〜1003)に、この2曲を一つにして、年号をとって曲名としたと記されている。襲装束を着て舞う。番舞は「賀殿」。

埴破(はんなり)=金玉舞、登玉舞、弄玉舞

 高麗楽、壱越調、中曲、四拍子、拍子六、新楽。舞あり(舞人4人、文舞)。
 巻纓(まきえい)に老懸(おいかけ)をつけた末額冠(まつこうのかんむり)に萌葱(もえぎ)色の袍、金べりの裲襠という別装束で舞う。埴玉(はにだま)という五色に彩られた玉を懐に入れて後に取り出す場合と、初めから左手に持って舞う場合がある。高麗楽の多くの曲と同様、由来は不明。次第は、狛調子(あるいは意調子)、当曲(四拍子)。当曲が始まってから舞人は登場し、当曲舞を舞い、当曲のうちに退場する。番舞は「打球楽」。

進蘇利古(しんそりこ)

 「狛桙」の曲を使用する「蘇利古」に対して「埴破」の曲を使用する。
 「蘇利古」を参照