楽曲解説(唐楽の部・双調/黄鐘調)


春庭楽(しゅんでいらく)=和風長寿楽、夏風楽、春庭花

 唐楽、双調、中曲、延八拍子、拍子十、新楽。舞あり(舞人4人)。
 舞楽を一帖のみ舞うときは「春庭楽」といい、二帖(2回繰り返す)舞うときは「春庭花」という。中国唐の則天武后の長寿年間(692〜693)に作られ、遣唐舞生の久礼真蔵が延暦年間(782〜805)に日本に伝えたという。もとは太食調であったが中絶したので、仁明天皇(在位833〜805)の勅により和邇部太田麿、犬上是成らによって再興され双調に変え「春庭楽」と改名された。東宮冊立(皇太子を立てる)の式のときに奏し、春の節会に舞われた。一帖のみ舞うときは、左方蛮絵装束に巻纓・オイカケの冠をかぶって舞う。二帖舞うときは、左方蛮絵装束の右肩を袒(ぬ)ぎ、巻纓・オイカケの冠に挿頭(かざし)をつけ、太刀を持って舞う。春の庭に花と戯れるようすを舞にしたものという。後半(二帖)4人の舞人が輪になり、花のつぼみがぱっと開いてはまた急にしぼむさまをあらわす振りがあり、華やかな雰囲気をもつ。次第は、一帖のとき、双調調子・品玄(登場)、当曲(延八拍子、鞨鼓を用いる、当曲舞)、調子・入調(退場)。二帖のときは、双調調子・品玄(登場)、当曲(壱鼓を用いる)、当曲の重吹(退場)。管絃の曲としても奏される。答舞は「白浜」。

柳花苑、柳花園、柳花怨(りゅうかえん)

 唐楽、双調、中曲、早只八拍子、拍子二十四、新楽。舞なし。
 もとは舞があったが中古以来絶えてしまい、管絃のみで演奏される。女舞で四人の妓女が舞ったと古書に記されている。中国では葬送のときに新しく曲を作り奏することが慣例になっており、この曲もそのようにして作られたが、曲が悲しくないので棺を開けたところ死人が生き返っていたので、こんどは祝のときに奏する曲にしたという。日本には桓武天皇の代(781〜805)に遣唐舞生の久礼真蔵が伝え、内教坊で奏したという。はじめは太食調だったものを、承和年間(834〜848)に仁明天応の命で双調に改作したという。

喜春楽(きしゅんらく)=寿心楽、寿春楽、喜心楽、弄殿喜春楽、皇帝喜春楽

 高麗楽、黄鐘調、破、中曲、延八拍子、拍子七、古楽。舞あり(舞人4人)。
 中国隋の煬帝(在位605〜616)陳の粛公が作ったといも、大安寺の僧の安操が作ったともいう。曲が中絶していたのを、貞観元年(859)に行教法師が再興、京都の石清水八幡宮の遷宮のときに奏する例となった。また、皇太子の御冠の礼の式にも奏された。蛮絵装束を着る。序に続き破を奏し、三帖の前に右肩をぬぐ。重吹で入綾で舞人は舞台を下りる。番舞は「延喜楽」。

桃李花(とうりか)=赤白桃李花(せきはつとうりか)

 唐楽、黄鐘調、中曲、延八拍子、拍子八、新楽。舞あり(舞人4人)。
 中国唐の高宗(在位650〜683)のときに草木に関係ある曲を21曲作ったが、この曲はその中の一曲。女舞として日本に伝えられたが、今は男性が舞う。3月3日の曲水の宴でこの曲を奏したが、舞は絶えてしまったので「央宮楽」の舞を用いている。調子で舞人が出て、当曲で舞い、入調で入る。蛮絵装束を着る。番舞は「皇仁庭」または「登天楽」。

央宮楽(ようぐらく)

 唐楽、黄鐘調、中曲、延八拍子、拍子十二、新楽。舞あり(舞人4人)。
 承和9年(842)皇太子を立てる儀式のときに仁明天皇の勅により林真倉が作ったとも、大戸清上が作ったともいわれる。老懸をつけた腰纓の冠をかぶり、蛮絵装束を着て舞う。調子で舞人は出て、当曲で舞い、入調で入る。番舞は「綾切」。

海青楽(かいせいらく)=海仙楽、清和楽、海山楽、海旋楽

 唐楽、黄鐘調、中曲、早八拍子、拍子十、古楽。舞なし。
 仁明天皇(在位833〜850)が神泉苑に行幸のとき、楽人が船楽を奏してお聞かせした。中島を竜頭鷁首の舟で一周する間に一曲作るようにと天皇の命があり、ちょうど舟に乗り合わせていた大戸清上が笛の部分を、尿麿(はりまろ)が篳篥の部分を作曲して天皇に奉ったと『南宮横笛譜』に記されている。従って、これは中国伝来の曲ではなく、わが国で作られた曲である。それ以来、船楽のときに演奏する曲となった。

平蛮楽(へいばんらく)

 唐楽、黄鐘調、中曲、早八拍子、拍子十六、新楽。舞なし。
 もとは水調の曲であった。平蛮国で作られた曲。大国の楽であると『続教訓抄』に記されている。

西王楽(さいおうらく)

 唐楽、黄鐘調、破、中曲、早只八拍子、拍子十、古楽。舞なし。
 仁明天皇(在位833〜850)の代に花賀宴(はなのがえん)が催された際、天皇が作曲し、犬上是成(いぬがみのこれなり)が作舞したと伝えられる。序・破・急の三章からなる舞楽だったが、今は舞は絶え、破の曲だけが残されている。序は「催馬楽」の「葦垣」、破は「鷹山」、急は「山城」と同じといわれている。
 雅楽曲の中では軽快な楽曲の部類に属し、法要楽では導師の降礼盤楽や衆僧の退出楽などによく用いられる。

拾翠楽(じゅすいらく)

 唐楽、黄鐘調、小曲、早四拍子、拍子十、古楽。舞なし。
 昭和元年(834)仁明天皇の即位の式の際に、豊楽殿の庭上に、海浜の情景をしつらえ帆船を置いてそれに舞童を乗せ、海人が海草を拾う様を舞にしたのが、この舞曲だと伝えられる。作曲は笛師の大戸清上(おおとのきよかみ)とも、源頼能ともいわれ、按舞は尾張浜主(おわりのはまぬし)といわれる。もとは序・破・急の三章から成る長大な舞曲で、序は「催馬楽」の「青柳」、破は同じく「伊勢海」、急は「竹川」に合うといわれているが、序と破は絶え、「催馬楽」の「竹川」も中絶した。舞いも残っていない。