楽曲解説(唐楽の部・壱越調)


春鶯囀(しゅんのうでん)=天長宝寿楽、和風長寿楽、天長最寿楽、梅苑春鶯囀、天寿楽

 唐楽、壱越調、大曲、新楽。舞あり(舞人6人、文舞)。
 唐楽の四大曲(皇ジョウ・春鶯囀・蘇合香・万秋楽)の一。中国唐の高宗(在位650〜683)のとき、立太子礼の祭典中に鶯の鳴き声を聞き、楽工の白明達にその声をもとにして作曲させた。興福寺の僧円憲得業が浄明院の自房で、春の朝まがきの竹に向かってこの曲を奏していると、鶯が飛んできて笛と同じ音でさえずったことが『教訓抄』に記されている。仁明天皇(在位833〜850)の皇子成康親王はよくこの舞楽を舞い、天皇は笛を吹かれたという。伶人尾張浜主は承和14年(847)1月26日に104才でこの舞を舞ったという。
 次第は、遊声(序吹)、序(序吹・拍子十六)、颯踏(早八拍子・拍子十六)、入破(早六拍子・拍子十六)、鳥声(序吹・拍子十六)、急声(早六拍子、拍子十六)より成る。非常に楽章数の多い曲で,全曲を通して演奏すると約2時間かかる。なお、遊声・颯踏・入破の楽章は吹流しという独特の終止方法(三管が最後の音を延ばしたまま終わる)が用いられる。めでたい曲として日本でも立太子礼に奏されてきた。旋律の起伏に富んだ面白い曲といえる。古くは女性10人が舞ったとされるが、近代は男性が舞う。左方襲装束の袍(ほう)の両肩をぬぎ、下に着ている半臂(はんぴ)を見せ、この曲用の別甲(べつかぶと)をかぶる。
 昭和42年3月、国立劇場の雅楽鑑賞会で宮内庁楽部によって、明治以来はじめて全曲一具の講演があった。番舞は「退走禿」。

賀殿(かてん)=嘉殿楽、甘泉楽、含泉楽

 唐楽、壱越調、中曲、破 延八拍子、拍子十、小曲。急 早四拍子、拍子二十、新楽。舞あり(舞人4人、文舞)。
 承和年間(834〜847)遣唐判官藤原貞敏は廉承武より琵琶を習ったが、琵琶の譜でこの曲を日本に持ち帰った。琵琶の譜より和邇部太田麿が笛の譜を作り、仁明天皇(在位833〜850)の勅により林真倉が舞を作った。「賀殿」独特の甲をかぶり、右肩をぬいだ襲装束を着る。壱越調の音取に続き、道行に壱越調の「迦陵頻急」を奏し、舞人は出手を舞って位置につく。破と急とを舞い、重吹きで退出する。番舞は「長保楽」。

迦陵頻、迦婁賓、伽陵頻(かりょうびん)=鳥(壱越調以外)、迦陵頻伽、不言楽

 唐楽、壱越調、破 中曲、延八拍子、拍子八、急 小曲 早八拍子 拍子八、古楽。舞あり(舞人4人、童舞)。
 もと沙陀調の曲であった。林邑の八楽の一。双調に破と急、黄鐘調に急の渡者がある。壱越調の曲は「迦陵頻」というが、その他の調子では必ず「鳥」という。
 天竺の祇園寺の供養の日、極楽に住む迦陵頻伽(かりょうびんが)という霊鳥が飛び交う姿を見て、妙音天が舞とした。天平8年(736)我国に来朝した林邑国(りんゆうこく)の僧仏哲によってもたらされたという。
 子供の舞人が、頭に紅梅を挿花をした天冠をかぶり、足に脚絆、背に極彩色の羽をつけ、両手に銅拍子を持って打ちながら舞う。日本でも現在、仏供養の法会やお練りなどで同じ童舞の「胡蝶」とともに用いられる。「林邑乱声」で出手を舞い、「迦陵頻音取」に続いて壱越調の急で舞い、舞人4人が舞台を一周してから舞いながら退出する。登場・退出のとき、拍子に合わせて銅拍子を打ち合わせながら舞うのは、迦陵頻伽の鳴き声を模したものという。番舞は「胡蝶」。

承和楽(しょうわらく)=冬明楽

 唐楽、壱越調、中曲、延八拍子、拍子十、新楽。舞あり(舞人四人)。
 仁明天皇の即位のとき(833)勅により大戸清上が作曲し、三嶋武蔵が舞を作り、その翌年の黄菊の宴に奏され、年号をとって「承和楽」と命名された。また、承和元年(834)に楽所預、従五位上大中臣成文が作ったともいう。皇太子の宴会やその会場への出入りにこの曲を奏した。舞人は襲装束の右肩をぬぎ、調子で出て、当曲で舞い、入調で入る。番舞は「仁和楽」。

北庭楽、北亭楽(ほくていらく)=北亭子

 唐楽、壱越調、中曲、早八拍子、拍子十四、新楽。舞あり(舞人4人)。
 亭子院(宇多天皇、887〜896)のとき、不老門の北庭でこの曲を作らせたので、北庭楽の曲名がある。曲は大戸清上、舞は三嶋武蔵の作といわれている。舞人は右肩をぬいだ襲装束を着る。調子で舞人は舞台に出て舞い、重吹で入る。番舞は「八仙」。

蘭陵王(らんりょうおう)=陵王、羅陵王、没日還午楽

 篤学、壱越調、破、中曲、早八拍子、拍子十六、古楽。舞あり(舞人1人、走物)。
 もと沙陀調の曲であった。林邑の八楽の一。中国北斉(550頃)の羅陵王長恭は顔かたちが美しかったので戦場での味方の志気が上がらなかった。そこで、戦場に向かうときはいつも勇猛な面をつけて兵を指揮、勝利を収めた。あるとき、周の大軍を金庸城の敵の中に深く攻め入ってこれを破った。将兵達が羅陵王入陣曲を作って歌い、敵をうち破るありさまを舞としたものである。日本には天平8年(736)に婆羅門僧正や仏哲などが伝えたという説や、尾張浜主が平安初期に唐から伝えたという説がある。
 陵王用の赤色裲襠装束に、金色の顎のゆれる大型の竜頭の面をつけ、右手に金色の桴(ばち)を持ち、左手は剣印(けんいん)という形をして舞う。両手を高くあげ、活発に舞う姿は勇壮で、左方の走物の代表とされ、右方の「納蘇利」とともによく舞われる。舞楽のうちでも最も軽快華麗なものといえる。次第は、小乱声、太鼓と笛の追吹のある陵王乱序、囀(さえずり)、沙陀調音取(さだちょうのねとり)、当曲、安摩乱声の順に奏して舞う。番舞は「納曽利」。

胡飲酒(こんじゅ)=酔胡楽、宴飲楽(えんいんらく)

 唐楽、壱越調、小曲、序、序吹、破、早四拍子、拍子十四、古楽。舞あり(舞人1人、走物)。  林邑の八楽の一。序と破が残っている。胡国の王が酒を飲み、酔って舞った姿を班蚕が舞にしたもの。林邑の僧仏哲が天平8年(736)8月にわが国に伝えた。また、仁明天皇のときに、舞は大戸真縄、楽は大戸清上が作ったともいわれるが、わが国で改作したものと思われる。
 面をつけ、桴(ばち)を持ち、胡飲酒用の毛べりの裲襠を着て、袍の上に半臂(はんぴ)をつけて舞う。大阪の四天王寺の階段は前後にそれぞれ二つあるが、これは左方の舞であるから左の階段から舞人は舞台に上がり、舞が終わって舞台をおりるときも左の階段からおりるべきであるが、胡飲酒に限って右方の階段をおりる。これは舞人が酔って間違えたものという。多家の舞で康和年間(1099〜1103)多資忠が殺されたので、堀河天皇の命令で雅実大臣が資忠の長男の16歳の多忠方にこの秘曲を授けたという。次第は、林邑乱声、序、破、破の重吹。序と破の部分が当曲舞。双調に破の渡物が管弦曲としてある。

新羅陵王(しんらりょうおう)=陪臚〔急〕、円長楽

 唐楽、壱越調、急、小曲 早四拍子、拍子十六、古楽。舞あり(陪臚急に当曲を当てる)。
 もとは沙陀調の曲で、急だけあり、双調に移調されている。弘仁年間(810〜823)勅により左衛門府が古楽とした。舞は絶えてしまったので、大阪の四天王寺の楽人が、舞楽「陪臚」の急にこの曲を用いて現在に至っている。

廻盃楽、回盃楽、廻杯楽、回杯楽(かいばいらく)

 唐楽、壱越調、中曲、延八拍子、拍子八、新楽。舞なし(もとは舞あり)。
 『楽考』によれば、唐の教坊楽に回波楽があるので、杯は波の字が変わったのであろうとある。もとは舞があったが今はない。

十天楽(じってんらく)

 唐楽、壱越調、中曲、延八拍子、拍子八。古楽。舞なし。
 もとは沙陀調の曲であった。笛師の常世乙魚が勅を奉じて作曲したものといわれている。東大寺の講堂供養の日に十人の天人が天から下ってきて、仏前に花を供えたので、天皇の命で作曲して「十天楽」と名づけられたと伝えられている。

菩薩(ぼさつ)

 唐楽、壱越調、破 中曲、延八拍子、拍子六、古楽。舞なし。  もとは沙陀調の曲であった。林邑の八楽の一。婆羅門僧正と仏哲がインドの舞をわが国に伝えたもの。曲は破だけ残っている。舞は絶えてしまった。大阪四天王寺の聖霊会舞楽では菩薩の面をつけた二人の舞人が舞台上を二回輪を作って歩く大輪小輪という行道作法をする。番舞は「蘇利古」または「獅子」。

酒胡子(しゅこし)=酔公子(すいこうし)

 唐楽、壱越調、小曲、早四拍子、拍子十四、古楽。舞なし。
 中国唐代の貴人が酒を飲むときに、この曲を奏したという。堀河天皇の頃(1090)に双調から移調されたという。小さくまとまった楽曲で、法要楽にはよく用いられる。

武徳楽(ぶとくらく)=武頌楽(ぶしょうらく)

 唐楽、壱越調、小曲、早四拍子、拍子十二。舞なし。
 中国漢の高祖(在位B.C200〜195)により作られた舞曲と伝えられるが、舞は絶えてしまった。わが国では、左近衛権少将藤原忠房が相撲節会(すまひのせちえ)のために勅によって改作し、その後宮廷の武徳殿で行われる小五月会(こさつきのえ)に演奏されたといわれている。小さくまとまった楽曲で、さまざまな儀式での奏楽によく使われている。

酒清司、酒清詞、酒清子(しゅせいし)=酒浄子

 唐楽、壱越調、小曲、早四拍子、拍子八、古楽。舞なし。
 催馬楽(さいばら)の「眉止自女」の曲と合うといわれているが、「眉止自女」のほうは絶えてしまった。

壱団嬌、壱団橋(いっときょう)=壱団楽

 唐楽、壱越調、新楽、小曲、早四拍子、拍子十六。舞なし。
 大戸清上の作曲で、舞は三嶋武蔵が作ったが絶えてしまった。堀河天皇(1086〜1107)の勅により源基縄の家に伝わる琵琶の譜から、源基政が横笛の譜に移したと『教訓抄』に記されている。また、源基綱が父に従って太宰府に行ったとき、宋の国の人に会い、琵琶の曲でこの曲を伝えてもらった。その後京都に帰って横笛の譜に移したともいわれる。

案摩、安摩、阿真(あま)=陰陽地鎮曲

 唐楽、壱越調、中曲、古楽。舞あり(舞人2人)。  もとは沙陀調の曲。林邑の八楽の一つとして仏哲により伝えられたが、仁明天皇の代(833〜850)に勅によって大戸清上が改作したという。左方襲装束(かさねしょうぞく)の両肩をぬぎ、巻纓(けんえい)・オイカケの冠に雑面(ぞうめん)をつけ、右手に笏(しゃく)を持って舞う。「安摩」だけ独立して舞われることはほとんどなく「二舞」と続けて舞われ、「二舞」は「安摩」の答舞の型となっている。囀の詞が『楽実録』にでているが、今は用いていない。
 昭和39年(1964)3月7日、東京文化会館大ホールで開かれた舞楽の国家指定芸能特別鑑賞会で宮内庁楽部によって戦後初めて公開され全曲演奏された。
 曲は、壱越調の調子を笙は3句、篳篥は1句、龍笛は音取ののち、唐楽であるが笙と篳篥は用いないで龍笛と鞨鼓、太鼓、鉦鼓だけで伴奏する。次第は、壱越調調子・音取、乱序(鹿婁乱序といい、これ以下笛と打物のみで奏する。最初、打物だけで鹿婁という特殊な奏法をする間に舞人は面をつけ、楽屋を出て舞台に登る。笛が「安摩乱声」を吹き始めると出手を舞い出す)、囀(途中まで無伴奏の舞、その後笛と打物が加わる)、当曲、案摩乱声で「二舞」に続く。

二舞(にのまい)

 唐楽、壱越調、中曲、古楽。舞あり(舞人2人)。  林邑の八楽の一。「案摩」に引き続き舞う。「案摩」を舞っている間に、「二舞」の舞人は舞台の下に出て、その舞を見ている。「案摩」の舞人が舞い終わって舞台をおりるとき、「二舞」の舞人とすれ違う。このとき「案摩」の舞人の持っている笏(しゃく)を渡してくれと手振りするが断られる。「二舞」の舞人は舞台に上がり、「安摩」の舞をまねて舞うがうまくいかない。このことから、前の人のまねをして失敗することを「二の舞を踏む」という。上位の舞人は左方襲装束のうち、袍と踏掛を用いず、咲面(老爺の笑った面)をつけ、牟子(帽子のようなもの)に篠竹をはさみ、下位の舞人は右方襲装束に腫面(老婆のはれただれた面)をつけ、腰に下笹をはさんで舞う。笛と打楽器のみで演奏され、次第は、乱序、詠、囀、乱序で、退場は奏楽なし。