御絵伝・第一幅
目次 次


「御絵伝」第一幅


第一図(出家学道の図) 青蓮院門前(正しくは、白川坊門前)

 養和元年(1181)春、九歳になられた松若丸(親鸞聖人の幼名。忠安とか鶴充麿ともいわれる)が出家得度のために、伯父の範綱卿(のりつなのきょう)に伴われ、慈鎮和尚(じちんかしょう)の青蓮院(しょうれんいん)(正しくは、白川坊)へ行かれたとき、聖人が既に院内に入られた後の門前の様子である。伝絵二十図中、この最初の図だけ、主人公となる聖人の姿が描かれていない。

 青蓮院は、京都東山栗田口にある比叡山延暦寺の掛所で、三千院・妙法院とともに延暦寺三門跡の一つである。久安6年(1150)、天台座主行玄が三条白川にあった自坊を寺としたのに始まり、比叡山東塔南谷の行玄の坊である青蓮院の号をとり「青蓮院」と称した。

 門外には、立烏帽子(たてえぼし)をかぶり水干(すいかん)を着た男が四人。一人は牛車の車輪にもたれて立ったまま居眠っており、三人は塀のそばに座っている。一人は傘持で、塀に立てかけてあるのは傘である。車を引いてきた牛の世話をする牛飼童(うしかいわらわ)が、範綱卿が乗ってきたと思われる馬の世話をする男と話している。彼らはみな聖人のお供の者たちである。そして、桜の木の傍らには、聖人がお召しになった牛車(網代車)が停められている。檜・竹・葦などを薄く削り、楯・横・斜めに編んだ網代(あじろ)が使われているので「網代車(あじろぐるま)」という。

 檜皮葺(ひわだぶき)の四脚門(しきゃくもん)を入った中庭にも男が四人。立烏帽子をかぶり狩衣(かりぎぬ)を着て立っているのは、慈鎮和尚の家人(けにん)であろう。座っている三人のうち二人は、聖人を護衛してきた武士であろう、侍烏帽子(さむらいえぼし)に直垂(ひたたれ)という姿である。もう一人は垂髪で直垂を着ているので聖人に仕える稚児であろう。下の方にも立烏帽子をかぶり狩衣(かりぎぬ)を着た二人の男が描かれている。下の画像では、これらの人物を「雑色(ぞうしき,ざっしき)」としている。「雑色」とは、さまざまな雑用をする者たちのことで、位階がなく、位袍(いほう)・当色(とうじき)がないため、雑多な色の服を着るところから「雑色」と呼ばれたようである。

 親鸞聖人の出家得度の地は、広く一般に青蓮院と思われているが、実は青蓮院ではない。親鸞聖人が出家得度なさったとされる年には、慈円(慈鎮和尚)はまだ青蓮院に住しておらず、青蓮院には師である覚快が住していた。『玉葉』によると、慈円が青蓮院を相続したのは2年後の寿永2年(1183)7月である。親鸞聖人が本当に慈円のもとで出家得度されたのであれば、出家得度の地は、当時慈円の房舎であって、のちに青蓮院本房の一部となった京都の白川坊(しらかわぼう)と考えられる。