4.お寺は葬儀のためにある? |
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![]() | 6.死の受けとめ方 |
5. 臨終勤行(一般にいう枕経)で |
死亡の知らせを受け、臨終勤行(「枕経」)にお参りしますと、お仏壇のある部屋に遺体が安置されているにもかかわらず、そのお仏壇の扉が閉められていることがしばしばあります。その反面、遺体の前には葬儀社が用意した白木の卓(つくえ)にローソク立てなどの三具足やおリン、それにご飯を山盛りにした故人の茶碗がきちんと並べられていたりします。 しかしながら、私たちがお勤めするのは、遺体に対してではなく、お仏壇の如来さまに対してなのです。真実のお浄土をこしらえ「必ず救いとる」と誓われ、故人との別れに嘆き悲しむ私たちに「しっかりしなさい。私がついているから…」と励まして下さる如来さまのお心をいただくのです。お仏壇の扉を閉めてしまったのでは何にもなりません。 確かに、故人への未練は絶ちがたく、どうしても遺体の方へ目が向きがちになります。しかしいくら心を込めて「成仏してくれ」と願ったところで、私たち凡夫に故人をお浄土へ往(ゆ)かせてあげる能力は、残念ながらありません。 お浄土へ生まれさせ成仏させることができるのは、如来さまをおいてほかはないのです。故人も、そして悲しみにくれるこの私も、阿弥陀如来のおはたらきによって救われ、また心底からの安らぎを与えられることを味わわねばなりません。 私たちは、こうした悲しみを縁として人生無常の理(ことわり)をかみしめ、生死を超えて変わることのない如来さまの真実のお心を依り所に生きぬくことこそ、大切であると言えましょう。故人もきっとそんな生き方を願われていることでしょう。 ですから、平生(へいぜい)はもちろん、臨終から一連の葬儀についても、如来さまに対して勤行や合掌が行われるのであり、遺体や遺影に対してではありません。もしお仏壇がなければ、お名号などのご本尊を奉懸(ほうけん)し、その側に遺体を安置します。 なお、遺体は釈尊入滅時にならって北枕にしますが、特にこだわる必要はありません。 |
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